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先生という言葉は、気をつけて使っています。少なくとも言われたいわけではありません。

私は「先生」という言葉に対して、言われる時は非常に注意しています。

私の専門分野ということもあるのですが、立場の影響力は非常に大きいものがあります。


新大学一年生を例に挙げてみます。

昨年まで高校生として必死に勉強していたのに、大学に受かった途端勤勉さはどこかへ消え、アルバイトとしてスーツを着て、カウンターの内側に立っているだけで「先生」と言われます。

質問に来るのはたいてい、自分が知っていることばかり。頼られやすく、「凄い」と思われやすく、(それ以外の事務作業を除けば)とても気持ちのいい仕事のように思われます。承認欲求も満たされやすいと思います。


そこに落とし穴があると私は考えています。「先生」と「生徒」という関係は、それだけで上下関係みたいなものを発生させてしまうと考えているからです。


言う側からしたら、「では何と呼べばいいのか」ともなってしまうので、積極的に「やめてください」とは言っていませんし、実際私も先生という言葉は便利に使っています。


しかし、「先生」と言われることに対しては非常に気を付けて聴くようにしています。「先生」と言われるだけで、なんだか偉い人になったかのような、敬ってもらっているかのように感じないようにするためです。


「先生」と言われるだけで、自分は偉いと勘違いしてしまうことが最大のリスク

何の根拠もなく、立場だけで偉い人の地位をもらい受けた「先生」は、その気持ちいい世界に居続ける傾向があります。居心地のいい環境に居続けたいと思うのは当然のことだと思います。

しかし、そんな居心地のいい環境にいて、今以上に自分を高めようとする人はどれくらいいるでしょうか。


すでにできないことはあまりなく、すでに持っている知識で仕事になり、敬ってもらえる環境で、わざわざそれ以上に向上心を持って努力する人は、あまり多くないと考えます。そうする直接的な理由がないからです。

逆に、その居心地のいい環境や自分の立場を守ろうと努力する方が納得感があります。つまり、自分ではなく周囲を変えよう(または変わらないようにしよう)と努力する傾向があります。


そういった無意識(意識かもしれませんが)は、行動の節々ににじみ出てしまいます。それが思いっきり周囲の人間に伝わります。

論理的に話ができない先生は、自分の立場を守ろうとして、論理的に話している中高生に対して感情的に怒ったりします。そういった事例は、私の立場上非常にたくさん聞いています。

こういった経験をした中高生はたいてい「この人は信用できない」と(言葉に出さなかったとしても)判断しています。

(このことと近い問題は、親子関係においても起こりやすいですが、ここでは言及しません)


補足しますが、学校や塾の先生が皆、上記のようになっていると主張したいわけではありません。

「先生」と呼ばれる環境に身を置くだけで、無意識のうちに、向上心を無くして自分の立場を守るような、つまらない人間になるリスクがある

私はこのリスクを非常に恐れています。「無意識のうちに」という点が非常に厄介です。




その日一日のクオリティで勝負する

中高生とスタッフは、立場・年齢・経験値等が違います。

当然置かれた状況が違うので、簡単に比較することはできませんが、「その日一日、どれだけ時間を有意義に使えたか」という観点で比較することは可能です。


その日一日のクオリティをどう考えるかは人によって違うと思いますが、

余計なことは考えずに受験に没頭することができる受験生と肩を並べて努力できる環境に、私は大きな価値を感じています。


私がパラリアで生徒指導にあたる際、同じ空間で自分は自分の仕事もしています。

その中で、「ここで努力している誰よりも、自分は集中して自分のやるべきことができているか」と自問することができます。


パラリアでは、毎日帰り際に、予定通り率と主観的なその日の満足度を書いてもらっているのですが、100%を超えた数字を書いてくる生徒がいると、「自分は今日の予定を100%以上こなしただろうか。それによって想像以上の満足を得ただろうか」と自問します。


私のライバルは、勉強に励む中高生です


パラリアは、自分の時間を最大限活用するための場です。

話す人同士の場合も、そうでない場合もありますが、全員が自分の時間を有効活用しようと努力する場です。その場の人から影響を受けて、自分の背筋も伸びやすい場です。


このように考えると、教える側の向上心がなくなるようなことは起こりません。教える側が中高生以上に努力することで、「この勢いで勉強しないといけないのか」と、暗に示すことにもなります。


有効活用が目的なので、勉強も休憩もすべて考慮に入れる必要があります。眠気と戦いながら勉強するもよし、眠いため一度しっかり休み、万全の状態で一気に集中するもまたよし、その人その人の戦略次第です。

だからこそ、休憩しやすいスペースを設けています。内装にバリエーションがある一つの理由です。



受験指導の場をこのように捉えると、「先生」や「生徒」という立場だけで、すべてを決めるようなことは絶対に起こりません。「先生」または「生徒」という言葉はだんだん不適切になってきます。


このように環境とは、家具や空間だけではなく、その場にいる人や、その場の文化も含まれます。

こういったすべてのことから受ける影響を総合して、「環境は大事である」と言われるのだと考えています。


「先生」と言われることに対して注意するのは、当たり前のことであると同時に、違和感を感じることこそが、自分が方向を間違えていないという証明であると考えています。


●まとめ:パラリアの価値基準
その日一日をどれだけ本気でやり切れるかどうかで競っている。現状や課題、学力レベルは関係なく、生徒かスタッフかという立場の違いも全く関係ない。

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