「ウォッシャーズハイ」についての考察



監修させてもらっている雑誌「酒場人」の第2号で、みうらじゅんさんとかせきさいだぁさんに酒場でインタビューをさせてもらった記事の中に、こんな一節がある。

みうら:あのさ、そうやってひとりで飲んでる人って、なんか遠い目をしたりしてるでしょ。あれ、一体何を考えてんの? なんか、皿を洗ってる時みたいな目になってるよ。
かせき:あ、でも近いかも! 僕、皿洗うの好きなんすよ。
パリッコ:僕も皿洗い大好きです!
みうら:あれ、トリップするもんね。
かせき:あれと同じかもしれない。きっとなんかを洗ってんすよ(笑)。


どうも皿を洗うという行為には、単なる「家事」以上の、何らかの特別な要素が含まれているようだ。

かくいう自分も昔から皿洗いが好きで、妻の手伝いの一環として行う家事の中だと、料理はまぁ別格、趣味みたいなもので、次点はあきらかに洗い物だ。

シンクに適度に溜め込まれた食器類を手に取り、洗剤を垂らしたスポンジでスルスルとこすってゆく。
洗った食器は、水切り棚に並べる際になるべく無駄なスペースができないよう、順番を考えながら積み重ねてゆく。
それをこんどは、清らかなる流水で、次々にすすいでゆく。
1枚、また1枚と繰り返すうち、頭の中がどんどんクリアになり、やっかいな仕事などによって蓄積された無駄な思考が削ぎ落とされ、やがては瞑想状態に……。
というとちょっと大げさだけど、何だか妙に気持ち良く、楽しいことは確かだ。

実際、飲みの場などでこの話題になって、同意してくれる男性も多い。
(男性とばっかり飲みにいってるからか、男女比があるのかは今後の研究課題)

ところがそんな洗い物の中にも後回しにしがちなものがあり、それはタッパーなどのプラスチック製品。
陶器やガラスと違い、手に持った時のどっしりとした重みが足りず、素材感がペラペラと頼りなく、はっきりと綺麗になった実感も湧きづらいから、洗っていても楽しくない。
もちろん、適当に積んでも割れる心配のないプラスチック類は、水切り棚に乗せる順序を考えても最後に洗うのが理にかなっているが、そういう理由を差し置いても、なるべくなら後回しにしたい。
いや、なるべくなら洗いたくない。

これまで自分は、それをプラスチックという頼りない「材質」のせいだと思い込んでいた。
しかし先日、実はそうではないことに気がついた。
陶器は陶器でも、ちょっと凝った、ギザギザの形になってるような皿を洗ってる時、「これ、楽しくないなぁ」と思ったのだ。

そこで想像してみた。
「もしもタッパーの形をした陶器を洗うとしたらどうか?」

嫌だ。
あの、蓋の周囲に沿った溝。
リズム感を狂わされる四角い形。
全然気持ち良くないことがまざまざと想像できる。

つまり、洗い物の気持ちいい/よくないの基準は、材質よりもむしろ「形」の方にあったのだ。

なるほど、考えてみればこれまでも、プラスチック製の丸いボールは無意識のうちに楽しく洗っていた。
けど、一見同じ形でも無数に隙間のあるザルは、洗いたくないったらない。
スプーンを洗うのは好きだけど、フォークは嫌だ。

洗っていて最も楽しいのは、表面がなめらかで、丸みを帯びた皿やどんぶり。
想像するだにうっとりとする。
この、精神衛生上とても良さそうな感じは、どこか仏教における「マニ車」に通じるような気もする。

とにかく、洗い物の楽しさにおいて、材質よりも形が重要だったという事実は、自分にとって大きな気づきだった。

だけど、今立っている場所はきっと「皿洗い道」の入り口に過ぎず、追求すればするほど、広大でスピリチュアルな次元がその先に広がっていることは、火を見るよりあきらかだ。
今後も精進して皿を洗っていきたいと、あらためて思った。


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