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【𠮟らないと多様性理解の混同】

驚くことに、叱らないと多様性理解を混同する方がホントに多いのです。

今回は、叱らないことと多様性理解のすみわけを考えてみます。


多様性理解の解釈

多様性とは
いろいろな種類や傾向のものがあること。
変化に富むこと。

コトバンク

人は何かの型に限られない。
体の性だけで限られない。
IQの多寡で限られない。
身長の長短で限られない。
etcetc..

多様性とは、種類に限りが無く、普遍ではないという意味。

昨今、LGBTや発達障害など、大勢多数の人と少し異なる人たちがフォーカスされ、その人たちを理解しようとする波が盛んです。

確かに、そのとおり。

人というか動物は皆、異性だけを愛するわけではないし、皆が皆、発想力や柔軟性に富んでいるわけではない。
様々な価値観の存在を知ることは賢い生き方です。
それは、そうなのです。

ところが…


多様性理解だから”叱らない”

多様性を理解しなけらばならない。
ゆえに、相手に何も言わない。(言えない)

という現象を時折見聞きします。

例えば、職場で。

睡眠障害のAさん。
純粋に皆日リズムが崩れていることで、朝起きられないことがたびたび。
本人も障害を受容し、周囲に事情を話しながら社会人生活を送っている。

実際に出合った話なのですけどね。

会社の人が、ふと、こう言ったのです。
「Aさんを見て、後輩らが『あの人は簡単に遅刻する。それでいいんだ』と、言って怠慢になってきているのが気がかりで」

おや?と、思いませんか。
睡眠障害という多様性を理解せねばならないという意識は好ましいですが、障害を理由に好き放題に行動すること、その人を見て間違った学習をする人を野放しにすることは多様性理解とは違います。

Aさん自身、遅刻が良いことだとは思っていませんし、重々、申し訳ないと思いながら出勤しています。
会社も同様、Aさんは特例であることを認識した上で、後輩がAさんを真似したら注意し説明すれば良いのです。


例えば、子どもを取り巻く環境の中で

とある保護者のBさん。
自身の子が、他の子と目の前で喧嘩をしています。
殴り合いの喧嘩です。

そこで、Bさんこう言いました。
「顔はやめて」

実際にあった話らしいです。

子どもは喧嘩をします。それは良いこと。
喧嘩をすることで、力や言葉の使い方を覚えますし、痛いということや傷つくことを覚えます。
その経験が、人を傷つけない力加減を覚えることにもつながります。

一方、喧嘩は社会的には不適切な行動。
暴力は許されません。
その概念を教えず、喧嘩を止めようとしないことは問題です。

どんな価値観で、どんな行動を取るかは子ども次第ですが、やって良いことと悪いことの線引きはあるはず。
上のAさんを真似する部下のようなハナシです。


多様性理解は『応用』テクニック

多様性理解は、社会の上では『応用』テクニックです。

人は、社会性のある動物。
つまり、団体で生活する動物です。
団体で生活するということは、その団体が崩壊しないための最低限のルール(ベース)があります。
人を殺してはいけないとか、人の物を盗んではいけないなどもその一つ。

昨今、LGBTの方のトイレ問題が紛糾したのは、団体生活が崩壊しないための最低限のルール(男女の身体的性差による環境管理)に抵触しているから「問題」になったのだと考えます。

多様性理解は、なんでもかんでも「擁護する理解」ではないのです。

Aさんの例では、企業が必要とする最低限の生産性がありますし、企業理念を維持するための最低限従業員に求める矜持があります。
それをクリアするために必要な「指導」「教育」は、どのような条件であっても欠かせません。
企業とAさんの間では、障害をふまえた個別対応であることを理解し合っています。合意形成も、一つの指導や教育。

多様性理解のために何でも許す

多様性理解が理解できないからがんじがらめにシステマチックにする

…という『全か無か』の発想ではなく、ベースを抑えた上で応用できるところを最大限に応用するという発想をモノにできると理想的だと思うのでした。


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