18. 籠城 ・・・#実験小説 #あまりにもあいまいな 

「死は 偉大なり。
われらは 高らかに笑う
そが うからなり。
われら 生のただなかにありて思うとき、
死は われらのただなかにありて
涙ながしつつあり。」
     『形像詩集』リルケ
                 
父は、白川社宅からMM製作所に歩いて通っていた。
当初は、夜の街を飲み歩いて家に帰って来ないことがあったが、そのうち、労働運動絡みの「籠城」で帰って来ないことが度々、暫くあった。

物心ついてから、分かった。ずっと第1組合(本来の労組)として「籠城」していたのだと思い込んでいたが、多分、第2組合(会社側・御用組合)としての「籠城」だったのだろう。
第1組合(本来の労組)の闘争で、ストライキをやってピケを張っている期間などに就労を確保するために会社側が第2組合員の労働者を「籠城」させていたのである。

もし、第1組合の籠城だったのなら、あんなに静かに父と面会なんて考えられないからである。会社は、警察権力を動員してでもピケを排除してくるだろうから。

母と一緒に、父の着替えと、夕食の弁当を作って会社に持って行ったことが何度かある。第1組合の闘争との関係か、いつも夕方~夜だった。

だから、帰りは遅くなることもあった。父は、長男だったが、実家は次男が住んで両親を見ていた。その次男は、大牟田の自動車工場に勤めていた。
その職場に、母と一緒に寄って帰ることが常であった。何か、食べものを届けたのかもしれない。職場で、少し母と話ししてから、次男の叔父さんは白川社宅まで一緒に歩いて送ってくれた。叔父さんは、とても優しい人で、母と歩きながら静かに話ししていた。
「おげな、兄さんとは考えが違うけん。」という言葉がいまだに巧の頭に焼き付いている。多分、社会主義の向坂学校時代の左翼イメージが父には強かったので、そんな兄とは違うということなのだと思う。次男は、自衛隊出身のバリバリ右のひとだったから。第2組合に転向させられていたとはいえ、向坂学校出身の社会主義者というイメージが父には付きまとっていたのだろう。
白川社宅に着いて、「それじゃ」と言って分かれる時、何か少し寂しげだった。叔父さんも母も。

・・・ある時、いつものように父に面会に行った。父は、穏やかに母と巧に話していた。
突然、ひとが慌てて走って行く。父も飛び出して行ったが、母と巧には「来るな」と言い残した。早々に母と巧は帰らされた。
おとなたちの会話を耳にしてしまった。ひとりの労働者が大型機械の歯車に巻き込まれたとのこと。即死だった。胸から上が無くなっていたとのこと・・。

おとなは、不注意にも幼児の前で、幼児は何も分からないと思い込んで、いろんなことを平気で話す。それが、時には、その幼児のこころをズタズタにすることもあるというのに。
巧は、その労働者の事故の様子が眼に浮かんで、身がすくんだ。巧の想像と言えば、想像に過ぎないが、巧のなかのなにかが変わった。

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