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3 炭住と「社会主義の学校」・・・#実験小説 #あまりにもあいまいな

 「労働組合は社会主義の学校」(マルクス)

母親☆☆は、出産のために実家に帰ってきていただけで、間もなくして、熊本県荒尾市にあった、三井鉱山の炭鉱住宅、所謂「炭住」である□□社宅の安普請の平屋の長屋に戻った。母親☆☆は、とても気が重かった・・。

 1953年・・・戦後8年経ち、3年にも亘った朝鮮戦争の休戦を契機に、朝鮮戦争特需の反動で不況が日本に襲いかかり、吉田内閣は、スト規制法を強行すると同時に、日米相互防衛援助(MSA)協定を結んで、事実上の米国の「植民地」下での再軍備に突き進んだ激動の時代だった。三池炭坑にも終戦直後1946年に「三池炭坑労働組合」が結成されたが、会社は、2回もの人員整理によりレッドパージを強行した。

労働組合の側も組織を強化し、三池炭婦協(三池炭坑主婦会)も結成され、家族総出での闘争態勢を整えていた。
母親☆☆と父親△△と、生まれたばかりの巧が棲む炭住、□□社宅も例外ではなく、三井鉱山が5738名もの首切りを発表した1953年8月7日以降、労働組合員のみならず家族も「首切り撤回」を掲げてピストンデモ、本社抗議デモ、総決起集会、公開団交、座り込み、ストライキ、減産闘争等、毎日、闘争に動員された。
「炭住」故、会社の人間関係がそのまま反映されていた。未だ、会社側が労働組合を切り崩して1960年に御用組合をでっち上げる前だったので、「炭住」つまり三池労働組合の「解放区」の様相だったのである。三池炭婦協の主婦会も次第に戦闘化して、デモも集会も半ば半強制だった。

農家の、未だ19-20歳の少女には理解できない世界だった。主婦会の学習会に出さされても、内容以前に唯々、強制されることが嫌だった。折角兄の厳しい躾から逃げ出したと思っていた憧れの「町のサラリーマンの奥さん生活」も、別の更なる厳しさに直面した。

それに反し、10歳年上の夫、巧の父親△△は、左翼思想にのめり込んでいた。
当時、組合は、九州大学の向坂逸郎教授を講師に招いて社会主義の学習会を開催していた。所謂「向坂学校」である。そこから戦闘的な新左翼活動家、三池労組の組合活動家をたくさん輩出していた。組合の理論武装の場だったのである。文字通り「労働組合は社会主義の学校」(マルクス)だった。ましてや、大労働争議の真っ只中で、資本・国家権力から総攻撃を受けていた搾取の現場だったのだから、社会主義者にとっては、とてもいい学習の場だったのだろう。

29-30歳の△△も、熱心に学習会に参加し、戦後民主主義の中、革命思想に染まっていった。自称「向坂学校の優等生」と自慢する程だった。
「革命的高揚感」もあってか、毎晩母を求めた・・。

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