「評価」されなくてもネットメディアを辞めない理由

 いい感じに酔っ払っている。酔っ払っているので、多少の放言は許されるであろうということで、ご寛恕を。

 昨日、こんなエントリーを書いた。

 http://yaplog.jp/parsleymood/archive/1233

 「オンラインニュース」でいくら書いたところでコンテンツの「評価」なんかされないし、結局のところ新聞・雑誌といった「紙」で書かない限りライターなんか「実績」にならないよね、という話なのだけど。BLOGOSにもトピックスにピックアップされて、「硬派な記事が評価されない苦しみ」というコピーをつけられたとはいえ、別に「苦しんでいる」わけじゃないんですよ。「現実」を指摘したにすぎないわけで。

 僕自身の収入は、去年の「ステマ」問題があって正直4割くらい落ちているのだけど、それでもネットメディアで書くということに満足しているのは、自由気ままに書くということが許されているからなんですよね。例えばKPIを厳密に適用するならば、クラブイベントや同人即売会なんて取り上げることができない。そして、新聞などのレガシーなメディアはそこをピックアップしない。となると、それを「知らない」人にとってはなかったものとして扱われる。だから、1人でも「はじめて知った」という人がいるならば、それは価値のあることだという信念があるわけです。信念なんて言葉は、田中芳樹作品に影響を受けた人間として、大嫌いではあるけれどね。

 再三指摘していることではあるけれど、メディアの役割は「伝える」ことだけではなく、「残す」ことも重要な使命なわけで、それが誰もコンテンツにしないとなかったことにされる。それだと、時代の文化が歪められて伝えられるという危機感があるわけです。ならば、多少なりとも自由の効くネットメディアで書くということに、意義なり使命感なりを持たざるを得ないわけで。

 だから、そういうコンテンツを出していける余裕をネットメディアから奪った「ステマ」問題に関して、僕は怒っているし、誰にも得にならなかったよね、ということは強く主張したい。中には真面目に「広告」の健全化に取り組んでいた人もいるのも知っているけれど、面白半分で乗った人もたくさんいることも掴んでいるし、そういう人たちは許しがたいわけです。

 ちょっと余談が過ぎたので話を戻すと、レガシーなメディアの中の人たちが見れていない「地上」というのが確かにあるわけで、それを拾っていくのも振興メディアの役割ではある。そして、それが数十年後にアーカイブとしてリファレンスされて、時代の空気感を未来の研究者に「伝える」という使命が、どんなメディアにもある。そういったことに今のメディア人は無自覚すぎると思っているわけです。

 僕は無自覚ではいられないから、これからもそういったことを拾っていく作業を続けていくし、それにはレガシーなメディアではほぼ出来ないことでもある。だから、いくら「評価」されないとしても、ネットメディアの可能性に賭けているし、辞めることはない。願わくば、現代の読者にそういった「覚悟」が伝わればいいな、とも思うけれど、それもはっきり言って「期待」はしていない。ただ「残す」ことができればいい。

 そういった動機づけをして、僕は「紙」に行くことにこだわっていないし、これからも泣いて笑ってWebの中で戦っていく。そういった気持ちをもって、日々の記事を出している、という話でした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?