見出し画像

ネットメディアの閉塞感と希望

 画像は記事とはまったく関係ない『さわやか』のげんこつハンバーグ。飯テロだぜイエー。

 さて、ふるまいよしこさんが『note』に「メディア不要論」なるエントリーをお書きになっていて、頷けるところも多いのだけど、はっきり言って「意識の高い読者」向けだよなぁ、という感想を持ったので、いくつか思うところをメモがわりに記しておく。

 まず、新聞にしろテレビにしろ何年も前からネットに参入してきていて、とりわけスマホでのユーザーが7割に達していると『Yahoo!』やニュースアプリでの読者が流入も含めて多数を占めている。そういったユーザーのすべてが「意識が高い」わけではなく、テレビのニュースを流し見するような感覚でネット上の記事を読んでいる。そしてその多くは「どのメディアの記事(動画)か」ということを気にして読んでいるわけではない。ましてや「著者」が誰か、といったように調べるユーザーは全体の1%程度なんじゃないかな。

 そういったメディア環境では新たな書き手、それも「コラムニスト」と呼べるだけの人材が登場するのは至難といえる。ここ数年ではそれこそ武田砂鉄氏くらいじゃないのだろうか。

 僕はメディアの役割として新たな書き手を育てて送り出すということもあると思うから、『ガジェット通信』においてそこそこ努力もしてみた。とはいえ、それが可能なのは媒体に余裕があってこそで、収益面で落ちたことが主な理由として継続が叶わなかった。それでも続けて書いてくれる人はいるし、彼らが次のステップに進めるだけの下地にはなったのかな、と思うけれど。

 あと、これだけSNSが発達して一般のユーザーからの「まなざし」に耐えられるかどうか、というのも書き手として必要なスキルになっている。これも書き手の新陳代謝を阻む原因となっているように思う。僕みたいに2004年ごろの第一次ブログブームで丁々発止の空中戦が展開される中で鍛えられた人ならば少々の炎上ならば「ふーん」で流せるのだけど、読者の反応に一喜一憂しすぎて途中で折れてしまう書き手を何人も見てきたことから考えても、書き手を育てる難しさを実感せぜるをえないわけなのですよね。

 あと、今やレガシーメディアもPVの「味」を知ってしまって、極端な方向に進みがちになっているし、ネットメディアも他者の「失点」を追うことが止められない。これは前述の『Yahoo!』やニュースアプリのピックアップがそのような「失点」を選ぶ傾向が強いということも影響している。そして、そこに「社会に質するような問題提起」を出すといった価値観は、残念ながら日本のメディア環境では薄いように感じる。

 例えば、最近の山本幸三大臣の「学芸員はがん」発言に関して僕が『Yahoo!ニュース個人』に書いた記事は、これまでに取材した地方在住の美術館・博物館の例を出しつつ発言の問題点や課題についてまとめてみたが、煽りタイトルをつけなかったこともあってPVは1万ちょっとと伸び悩んでいる。多分、『アゴラ』から転載された「学芸員についての山本大臣発言は間違っていない」という記事の方が数倍は読まれているのではないかな。こういう極論の方が耳目を集めるという構造に『Yahoo!』がなっているという現実については、いろいろ思うところはあるけれど、ネットで書き手をやっている以上は受け入れてやっていくしかない。

 もっとも、ネットメディアの良いところは一度出した記事が「まったく読まれないということはない」ということだと僕は考えていて、学芸員の記事もSNSの反応は良好だったし、次につながるお話も舞い込んできたから、「読む人は読んでいる」という実感がある。ここにネットでの書き手の希望があるし、諦めずに続けていけば良いことがある、と多くの書き手が実感できるようにしたいなぁ、と木っ端ながら思うわけなのだった。



 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?