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共感

アギラールのことを未だに思い出しては、アギラールの幼少期や信念、次第にねじ曲がっていく運命に思いを寄せることがある。

私はアギラールを理解したいし、アギラールに「君のことを理解しようとする人だっているよ!」と伝えたい。

私の場合、その役への思い入れには理解や共感が根本にある。

しかし、役者さんがそのお役を演じるとき、イコール「役への共感」につながるわけではないそうで、そんな点に「すごい」なんて思ったりする。

お役を分析し、人生を想像し、心理状態を理解し、そして役として舞台に降臨する。この世の誰よりも、お役を掘り下げるのであろう。

その行為は情熱的に思えるけど、一方で冷静さも兼ね備えているんだな、と「共感はしないですねー」なんて言葉を聞いたときに思う。共感と、理解はまた別なのかもしれない。

役者さんの価値観があり、役者さんのお役への投影がある。それは必ずしも共感が必須というわけではなく、分析や理解、心を寄せるといった行為なのだろうか。

私自身が単純明快で猛虎突進型のため、「共感するわけではない」という俯瞰性に、ひぃ~、と天を仰ぐ。

役者の道について何も知らない素人のわたし。

贔屓の演じるお役には人一倍思いを募らせて募らせて観劇するけど、贔屓はお役に魂を入れながら、ご自身が発信することを把握コントロールされているんだろうなと思い、また贔屓の役者観に惚れ惚れしてしまう。

共感からしかアプローチできないんじゃなんて不器用な私は思うけれど、違うんだろう。
じゃあ何だと言われるとわからないけど。企業秘密。きっとたぶん。

私は贔屓のお芝居が大好きで、過去の作品からもずーっとこうして思いを馳せる時間をもらえる。しばらくまだまだアギラール始め、いろんなお役のこと考えていよう。



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