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無職満3年。


はじめに

 無職になってからこの4月頭で
丸3年が経つ。はやいのかな、
長かったのかな。いろいろな気持ちがあるなとおもった。この3年間は何もなかった3年間ではない。むしろ、必要不可欠な3年間だった、と今現時点でも思っている。


既卒1年目の3ヶ月目まで

 4月の、出勤3日目で辞めてきた私は
はじめの2週間ちょっとは退職の手続きと疲労で寝ている状況の交互だった。
 3日目の朝で仕事を辞めるといいだした異例の事態に、校長先生も教育委員会もこんな前例がないから、といったかんじで、知らせを待って待機してくださいだった。
 はじめは、疲れ果てて、心も体もボロボロで、その上結局、新卒たった2日で仕事を辞めてきてしまった、という絶望感と、「そんな私は何もできないんだ、みんなみたいに働けなかった、人生に失敗した、」と引きこもっていた。
 両親は、特段強く何かを言うわけではなかったけれど、入社3日目の朝送り出したのに、朝着いて朝礼より前に逃げ出した娘にはきっと驚いていたと思う。
 「せめて1年は、いや3ヶ月だけでも続ければよかったのに」
 「もったいない」「これからどうするの?」色々、言われたし、私だって新卒すぐ辞めてしまったこと、辞めてしまったことで「仕事で失敗する」好機を失ったことは今も後悔しているけれど、あの時の私には、もう今辞めるか、最低でも1年後まで倒れてでも頑張るかの2択だ、そのくらい追い込まれていた。
 仕事を辞めてきて2週間ほどすると、周りのみんなが働いているのに家でじっとして何もできずにベッドにこもって泣いている自分に焦りを感じて何かしなくちゃ、と、気分転換に外に出かけ、外に出かけてはたまたま持っていたからと「天声人語ノート」なるものに天声人語を貼っては、写していた。
 研究できなかったけど興味あること、の勉強会などに出かけた。読もうとして読めていなかった本や、大学院生時代には調べきれなかったことを今やろうなんて思ってノートに書き出し始めた。


興味のあるままに

 何かしなくちゃ、そんな思いから、
興味の移り行くままに貪るようにメモを取った。気になったらスクショでメモをとり、それがたまりすぎて頭がごちゃごちゃするので、ノートに書き出し始めた。そのノートはもう5冊目になっている。
 一つのことを調べ始めるとそこからさらに興味が繋がったりもともと大学院で研究していたことの派生物一つひとつを調べようとしたり、研究や専門分野以外の興味関心のあることをとにかく本を読もうとしたり、本当に様々なことに関心がとんで、あるAのことを調べているはずが気づけばわBに、Bを読んでいたと思ったら気づけばCに、と際限なく広げてしまう癖のある私は、
院卒で引きこもって何もしていない不安から、とりあえず関心のあることの勉強会でもいこうとシュタイナー教育に行ったのをきっかけに、シュタイナー教育、イエナプラン、ティール組織(ティール組織については大学院生の時から強い関心があったのでかなり調べた。)リベラルアーツ、そして学部生の時から関心のあったデザイン思考、そこから派生してブロックチェーンへ、問題解決思考、マネジメント、アドラーについて、知的財産権の本を一冊読み切り、さらに知財と自分の研究分野のつながりを見つけ、学部生時代から関心があり、文学部の要となる記号論についても1冊読み切り、記号論から構造主義へ、構造主義からフロイトやバルト、サルトルなどへ、そこから言語化や言語とはという自分の専門分野へ、そしてフロイトの本を読み終わると今度は弟に借りたフェルミ推定を読み、経済学の本の途中で止まったままおよそ7ヶ月ほどが経っている。


VCの仕事

 新卒すぐに仕事を辞めてきてから2ヶ月ほど。友人の紹介で身体に無理のない仕事をはじめた。この先コロナで契約が終わるまで、2年と半月仕事をした。
 今まで1番長く続いたアルバイトでも
大学4年生の時の塾講の1年1ヶ月弱だった私が、2年と半月も仕事が続くとは思わなかった。
 それまでファミレス、パン屋さん、客単価平均5000円以上くらい繁忙する100均店員、塾講師、家庭教師、試験監督、大学のSA、NT、入試スタッフ、小学校の英語のTAなどのアルバイトをしてきたが、
最も勉強になり、最も良い労働環境で、最も身体にも負担なく自分も無理のない仕事であった。
 細かい仕事の一つ一つをとれば、決して得意なことだけではなかったけれど、全体的には何も苦のない仕事だったし、何より自分の時間をとれるという点においてVCでの2年間に勝るものはなかった。自由度が高く、かつさほど多忙に追われない仕事だったからこそ多い時は週5日でも入れたのだと思うし長い日は9時間入れたのだと思う。
 さらに、顧客管理や他部署他社とのやりとりの仕方、日程の調整の仕方、仕事を間違いなく行うための方法などを学ぶことができた。正直なところ、2年間あったのだから、もっともっと学ぶべきことや学べたことはあったと思う。辞める時に後悔した。けれども、
このVCでの仕事で得たことは今の仕事の糧にもなっている。
 それになんといっても、VCやスタートアップの方々が集まる場にいたのはとても大きかった。ああいう場で、そういうところで働く方々を見ることができた、その経験は他では味わえない。
 さらに、最も大きかったのは、機械音痴が過ぎてそれまで予定は紙の手帳以外つかったこともなく、slackも知らなかった私がGoogleカレンダーとslackとスプレッドシートを使って仕事をしたということだ。(スプレッドシートは、私がパソコンを持っていないため、上司がわざわざ私がスマホでもできるようにとリデザインしてくれたのだが。)
 こういうものをつかって管理する仕事の仕方は、これまでに経験をしたことがなかったし、“ムダ”の多い塾で働いてきた私にとって、この職場での仕事の仕方は、新しい世界を手に入れたような感覚であった。
 それらの経験は今でも生きている。
新卒の時、新卒研修というものを経て仕事をする形ではなくいきなり現場に立たなければならない教員として仕事を始めた私が、不安に苛まれすぎて自分には無理だと思って辞めてしまったのは、もちろん体調が良くなかったこと、休みたかったことなどもあるが、
この、研修を経てから実践というものや下っ端ではなく「生徒たちを預かり指導する責任者」という立場にいざ立ってみて「自分にはできない…」という気持ちだったと思う。
 そうして仕事を辞めてきた私がVCの仕事の中で、非正規雇用の形で、少しずつ少しずつちょっとした仕事をしながら、隣で働く仕事のできる上司のやり方を見て、少しばかり同じように仕事を頼まれて、時に叱られ、時に助けてもらって2年間を過ごせたことは本当に大きかった。成長のゆっくりな私にはこういうステップが必要だったと今とても思う。
 VCの仕事をする中で、VCやスタートアップの会社の名前を知ったり、自分の関心のあることを調べたり本を読んだりできたことも大きかったし、VCの環境で働く方、その企業のCEOなどの方々と挨拶程度でもお話しをできたことも私にとってかけがえのない贈り物だった。きっと教員の仕事をやめて、疲弊しすぎていなかったらこの仕事を紹介してもらうことはなかったし、たまたまタイミングよくこの仕事の空きがなければ私のような採用のされ方はなかったし、たまたまそこで働くことにならなければ、私にとってVC企業やそこで働く人々は、全く想像のできない遠い世界の人だったと思う。
 どんな顔をして、どんなふうに仕事をして、どのくらいの年代の人がいて、どんな雰囲気で、どんな風に笑うのか、そういう一つ一つを知ることはなかった。


塾講師

 さて、以前にも何度か書いたが、
断れない業界の重鎮だった私は、
やはり大学院を修了してもなお、断れない人でVCで働いているだけではお金が回らず、とても転職活動はできない、と思っていた。その時たまたま、20歳の時に働いていた塾の教室が大変そうだと話を聞きとりあえず春期講習を手伝うよという形で塾講師になった。
 私にとってこれが3回目の塾講師。
はじめは春期講習だけを見て4月頭にそれで終えたのだが、6月頃にお金を増やそうと思い夏期講習前後にまた入ることにした。そして、夏期講習以降教室閉鎖まで働き、気づけば代講要員、そして短時間で済む未就学児童の指導、
短時間で済むはずだったその指導が気づけば担当児童数が増えて、コマ数が増え、週2回通って、教材も組み、宿題もチェックしていた。
 塾では未就学児童を教える講師が必要だったことや私が夜遅くまで働きたくないと申し出たこと、私に対しての国語指導ニーズが多かったことから、
ほとんど未就学児童の読み書きや国語算数の指導に終始し、たまに代講で英語を教えていた。本来なら大学院まで英米文学科で、英語教育専門だったのだから英語講師として働けば、転職活動にももう少し活かせたかもしれない。  
 未就学児童低学年指導の授業では、
担当人数、授業の仕組み、宿題チェックや教材の組みなど本当に毎日愚痴や呆れが止まらないような状況であったが、幼児・児童と向き合っているのは、指導(私のいた塾では授業することを指導という)は楽しかった。さらに、同時並行的に幼児児童を見るという能力も少しずつついた。いつもあたふたとしたような現場ではあったが、
おそらく塾で未就学児童低学年指導の担当をしなければ、今の仕事でなるべくパニックにならずに最も冷静でいようと意識して仕事することはできなかったと思う。
 低学年指導をするなかで、どこまで噛み砕くか、前知識の少ない彼らにどのように教えてゆくかを考えたこともきっと私の糧になっている。授業準備をして計画を立てて、授業案をつくってその通りに授業してゆくという学校教員スタイルは、計画的行動が苦手で計画を立てた直後から崩してゆく、いやむしろ先々を予測することが苦手な私にとってここの塾講師の働き方は結果的にかなり合っていたわけだ。
3度働いて3度辞めたのは結果的に断れなさすぎる自分、社畜になって嫌になってゆく気持ち、気持ちの余裕のなくなる状況、そして英語を教えたいという主軸を達成できない環境などがあったけれど、塾講師という職をして後悔したことはない。
 塾講師の話とは本来別なのだが、すぐに仕事を断ってやめたので、ここで、春期講習で一度塾をやめて、夏期講習で戻るまでの2ヶ月の間に関わったビデオ講師の仕事の話も少しだけ書こう。
ビデオ講師の話は友人の紹介であった。英語を教えられること、レベルは中高生のレベルであることなどから良い経験になると思い仕事を受けた。結果的にいうと、私は途中で仕事を断って辞めた。ホウレンソウがあまりにもなっていなかった上に、こちらがホウレンソウができていないといったような物言いであったからだ。
 今の勤務先も含めてだが、なまじ教育業界、特に中小の企業の社員たちのホウレンソウのできなさには正直辟易する。あらかじめこちらが予測を立てて〆切、必要なこと、決まり、スケジュールなどなど聞いておくのに、返事が遅かったり、締め切りは特にないので〜と返ってきたり、直近のシフトスケジュールがこなかったり…さまざまだが、正直どこもお粗末だった。
 塾講師業全体で得たものは、一度に色々なことを言われると大パニックを起こしてしまう私がパニックを起こしながらも少しずつ許容を増やしたことや、周りの状況を見るようになったこと、児童の年齢に合わせた教え方を意識したこと、細かい作業を積み重ねる忍耐力がついたことなどだ。
 また、時折、代講に入って教える国語や英語の指導がとても楽しかった。教育実習や自身の英語指導力のなさ、ビデオ講師の一件などで英語を教える立場はもううんざり、なんて思っていたが、塾で英語の代講を引き受けたときは本当に楽しかった。ぁあ、私英語まだ生徒に教えたり、英語の授業をするの楽しいと思えてると感じると嬉しかった。


転職活動

 この3年間で1番の失敗体験は転職活動以外にない。
 だって今も転職できていないし、転職活動も4〜5度やって4〜5回とも中断したのだから。最初の転職活動は、新卒1年目の5~7月頃にしたと思う。
 どういう企業だったか忘れたがいくつか受けて、その度に「新卒1年目で体調悪くて3日で辞めたのならまだ体調は戻っていないということですよね、きちんと体調を戻して元気になってから働いたらどうでしょう」と言われて落とされた。2度目の転職活動(実質的にきちんと向き合ったのはここから)は新卒1年目の終わり、年明け1月から2月にした。この時は、リクナビサイトのようなものに登録してオファーが来たところを受けていた。リクナビサイトの個人情報や履歴書などには新卒すぐに仕事を辞めている旨が記載されているわけだが、それを踏まえてオファーがきた会社に、面接に行くたびに、
「え、新卒すぐ辞めているんですか?」と聞かれて、内心、リクナビサイトの登録に全部書いてるんだから見て欲しいよなぁなんて思いながら面接のたびに、電話で聞かれるたびに全く同じ話を繰り返した。最後にはスラスラ説明するほど定型文と化していた。
 何度も何度も説明するうちに、定型文と化してなんでもないと思っていた仕事を辞めた理由、それにつながる大学院時代の生活、そして持病についての話を面接や電話のたびに毎日毎回同じように話し、同じようなことを質問され同じように真顔や笑って答えるを繰り返して、私はそれにもう慣れたと思い込んでいたが、ある日、「もう疲れちゃったな」「嫌だな」と思った就職活動休止2度目か3度目になって、やっと
「笑って話していたけど、私これについて話すたびに、思い起こしたくない過去や辛かったときのことを再体験して、それでこんなにこんなに疲弊したり、また心傷めたりしているんだ」と気づいた。
 最後に転職活動をしていたのは2020年7月。既卒3年目の7月には転職活動を再開して2021年の4月から働けるように、そんな気持ちで2020年1月頭の時点で7月から再開すると決めていた。
まさか、コロナで目の前の仕事を失うことも、社会情勢がこんなことになることも想定していなかった。そして、コロナ禍になって仕事は本当にバタバタとして、結局2020年頭にやっていた塾講師は塾が潰れて3月中旬に退職、VCも雇えないと言われて6月末に退職。6月頭に6月末退職が決まったため、当座の勤務先が必要だと、転職活動をはじめる直前にアルバイト探しをすることになった。急いでいたから友人の紹介で今の仕事をしている。
 予定では働いて3年目になるVCで働きながら転職活動を再開、だったはずの2020年7月だったが、月初めに新しいアルバイトをはじめ、それと同時に転職活動も再開してしまった。
 新しい仕事、覚えなければならないたくさんのこと、まだきちんと体系化されていない新しいアルバイト先のシステム、紹介してくれた友人に聞いていた児童の数の何倍もの児童数(ちょうど私が入る頃に増えた)、友人が教えてくれていた以上に任される仕事量(これも児童が増えたあたりで社員がアルバイトに任せる仕事を増やしたタイミングが私の入ったタイミングだった)
その中で、同時に転職活動を再開してしまった私は、面接準備、履歴書執筆、リクルーターからの連絡、リクルーターとの面談に追われた。ついていけなかった。
 そしてアノトキがきた。
 2020年7月18日を、私は生涯忘れないと思う。
 あの日、両親は2泊3日の旅行にちょうど出かけた日で、弟も家に帰宅しない日で私はずっと1人家にいた。15時から、やったことのない職に就くための電話面談が予定されており、転職活動の仕方をまだ全く理解していなかった私は、とりあえず早く書いてと言われて書いた手書きの履歴書を準備し、英語の会話テストも電話でするからと言われてそわそわしながら、15時からの面談を待っていた。正直なところ面談前から断ろうかと思うほど気持ちはかなり不安定だった。
 面談がはじまり、リクルーターに
「転職活動の前提として履歴書の書き方がなっていない」と様々な至らない点を指摘された。履歴書の書き直しと英語の口頭面接が数分で全部で3時間15分ほど電話が続いた。
 リクルーターの方は丁寧だった転職活動における履歴書や職務経歴書の書き方を、私は調べて調べまくって書いたわけだが、「書き方がなっていない、常識を知らないのか」という言葉の辛辣さにかなり辛くなったものの、
どのようにどの部分を書き換えるのかをすべて3時間かけて教えてくれた。
 3時間15分ほどの電話面談がやっと終わりもう日もどっぷり暮れた時、直さなければならないところだらけで赤字しか見えない履歴書と職務経歴書を目の前に、「それでは夜の23時頃までには送り直してくださいね」と言われて切ったその言葉の重みを抱えながら、うなだれた。心も頭も身体も疲弊し切っていた。
 指摘されまくって、みんなはこういうこと当たり前に知っているんだ、できないの私だけなんだ、私こんなに何もできないからどこも働けないんだ、ぁあ、同級生のみんなはこういうのを経験しながら社会人5年目を過ごしているんだ、なんて自分のできなさを目の前の見えなくなるほどの赤字につきつけられて、電話を切るまで堪えていた涙が止まらなくなった。
 苦しいや、苦しい。空を見ると電話をはじめたころは爽やかな白の混じった青空だったのに、真っ暗でその、夜の闇が私を覆い尽くして、私は数年ぶりに自死を考えた。
 廊下に置いてあるビニール紐をクルクルとひきだして、いい長さを見つけて鋏で切り、それで首をしめてみた。痛くて怖くてギュッと絞るとすぐにむせてそれ以上絞められない。
 カーテンレール以外に家中見回して首を吊る場所を考えていたけれど、どこもピンと来ず、さらにここが両親の家であること、これからも両親が住むこと、死んだら両親に迷惑がかかることなどなどを考え始めてしまい、結局わたしは、中途半端に痛くなってもたげた首をさすりながら、紐を握りしめて、ろくに生きることもできないのに、死ぬこともできない自分を身体中で感じて声をあげて泣いた。存分に泣いて、泣いて、泣きつかれてから徐にiPhoneを手に取って、その瞬間に速報の三浦春馬さんの死のニュースをみた。
 どうして才能ある方が亡くなって私は死ぬことができないのだろう。どうして才能ある方が生きられない世の中で私みたいな人間が生きているのだろう、私は何のために生きているのだろうと本気で考えすぎてまた泣いた。泣きすぎて最後には本当に文字通り一滴も水分が出なくなって脱水症状を起こしたほど真夜中過ぎても次の日になっても泣いた。
 結局あの日から転職活動は再開していない。今年のはじめに友人が応募しなよと準備までしてくれたけど、勇気のなくなった私は結局出さなかった。
もう、履歴書を見ただけでも、応募するなどという言葉を考えただけでも、あの日のことが蘇り、これまでの不採用がよみがえり、私はまるで動けなくなった。
 そして私は既卒3年目を終える今も、結局何一つ変わらないアルバイト、月収月たった数万、実家暮らしで親に出してもらわないとまともなご飯を食べられない生活をしている。


人間関係のこと

 これまでの27年以上の人生における変化、という捉え方で言えばこの3年間で最もかえることができたのは、自分自身と周りの人間関係だ。変えようと行動しはじめてから実際全体的に変えるのに3年かかった。
 でも、3年かかって人間関係構築の仕方、付き合う人たち、自分の人への接し方、断る技術、恋愛の関係などなどすべて変えはじめることができたのは大きい。何より、私自身が、まるで違う人間になりはじめた。だから、人間関係を変えられたのは非常に大きい。
 自分自身が変わったら周りにおきたい人も変わったし、今まで平気で付き合えていた人々に対する見え方も、これまで私のことを叱咤激励しつつしかし、良くない私とは深い関係になりたくないと距離を置かれてきた“マトモ"な友人達が、なぜ私と距離を取ったのかが分かったし、自立した人はどんな人なのか、仕事との向き合い方はどうするのか、キャッチや押しに弱い私が少しずつだけれど断る技術とスピードも身につけた。
 人生、タイミングというものがあるが、この、自分の人生の責任をとる、人間関係は自分がかわれば自然と変わる、と言ったことを考えはじめた折にたまたま、システマの教えを噛み砕いた「人生は楽しいかい?」をオーディブルで聞いた。
 システマの教えを耳から聞いて吸収した私は、今の自分のやるべきことや人との関わり方、自分との距離感、仕事への姿勢など少しずつ見直していき、1年前の私とはきっと全然表情の異なる私になった。今は、嫌なら嫌だと、違うと思ったら違うと、他人よりはまだ時間がかかるかもしれないが言えるようになった。自分の幸せのために時間をきちんと割き、日々の生活のなかで自分を満たせるようになったし、そうしていくうちにSNSの使い方を変えよう、と意識したし、意識しなくとも最近は負をSNSに曝け出さなくなった。
 人間関係を変えただけでこんなに変わるんだと驚いている。今の私は、少し好き。今の自分に出来うる限りの自分のための幸せを自分であげられることができるし、仕事だってパニックを起こしやすい私にはあり得ないほどに冷静にこなしているし、職場の人間関係の円滑化を考える余裕もある。
 親には甘えっぱなしだけど親との時間を大切にするようにもなったし、今ならどうして2019年、彼とうまくいかなくなったのかよくわかる。今まで、この子のここほんとうはおかしいよな、なんて思いながらも結局平気で付き合えていた友人たちの、やっぱりおかしいと思う部分を“まともに”感じとって、相手と適切に心地よくいられる距離をとれるようになった。
 児童たちとかかわるときの気持ちもずいぶん変わった。
 私はもう、自殺も死ぬことも生きていたいだとか生きていたくないだとかそういうことも考えなくなったし、毎日、ちょっとした自分の楽しみや日々の生活に没頭できるし、それらを楽しめる。
 SNSを使いはじめた大学生以降、息をするように呟き、心の闇が深くなるにつれて抱えるものが大きくなるにつれてSNSにだけどんどん曝け出していた私が、SNS 9年目10年目にして、関わり方をかえた。SNSにいる時間もずいぶん減ったし使い方も変わってきた。それだけで、私は画面の世界から解放されてきた。
 負の言葉やエネルギーばかり発する人、文句ばかりの人をフォローせずにみることをやめたら自分に負がたまらなくなって、私が吐き出す負の言葉もかなり減った。
 そして普段の関わり合いの中で他者がパニックになっている時直接話を聞く時間を取るようになったし、しかしそれはそのいっときでそれを考えない時間に他人の悩みを抱えるという傲慢さも消えた。
 自分の幸福感はある程度自分でコントロールできるようになってきて、やっと前を向いて自立しなければならない、そのためには責任感が必要だ、ということも身体を通して理解してきた。


note執筆者として

 そしてこの、無職の3年間のうち、
2019年2月から2年間私はnoteを書いている。
 noteは、もともと、働けていない中で大学院まででやってきた専門のことを社会に還元しようなどという大層な理由をもってはじめた。しかし、それらをまとめるには私の脳内は別のことが多すぎて、この自分自身の考えていることや社会への疑問などが頭からポップコーンのように弾けて、それを書き留めることにした。すると、弾けきったら中身がすべて空になると思っていた思いつきは、溢れて溢れて止まらない。それが結局2021年になっていたのだった。
 でも結果的に、これまでの人生でずっと考えていたけれど友人や家族には「何言ってるの?」「そんなこと普通考えないよ」などと言われてきた自殺や、私自身が言語化したいけど身近な人には話せなかったことなどを言語化することができたし、少しずつだけれど、文章の書き方も変わってきたと思うし、なにより、「書くこと」によって自分について、過去について、恋愛について、自殺や生きるということについて、友人含む人間関係についてなどを自分の頭や身体から取り出し客体的に、つまり至って冷静な客観視をするようになってきたのではないかと思う。
 noteの機能自体だって機械音痴の私にはまだまだついていけないけれど、だんだんとわかるようになってきた。
 noteに書くとき、SNSに、友人たちの中に出す私とは異なる。全く異なる、というわけではないが、やはり言葉や用い方が異なる。慣れるのが遅い、習得の遅い私だけれど、すこしずつnoteを使いながら、日々、私自身が用いる言葉を考えるようになった。頭の中が黒い文字で溢れてベラベラ喋ってしまう私が、もちろん今だって無駄におしゃべりの多い、talkative、もしくはchatterといった感じだけれど、話すときに、ウンッ、くらいの一呼吸をおくようになったり、話を聞く許容がさらに広がったり、他人の悩みを自分ときちんと切り離して考えたり、そういうことが少しずつできるようになった。
 2021年になってからは、毎日投稿すると決めたから、毎日言葉と、自分と向き合っている。そうすると、今までダラダラ他のことで潰れていた時間というのがnoteと向き合っている時間に割かれるようになって、例えばダラダラSNSに文字を起こして文字だらけで、それも愚痴みたいなことばかり書いて友人達に「楽しいこと書きなよ」って注意されてたくらい四六時中書いてたけど、そういったSNSにダラダラ気持ちや何かをダダ漏れで書くことが減った。まあ、代わりにnoteに書いていることになるのかもしれないけれど、思ったこと書いてはポンポン投下していた私が、noteを書くようになってからはnoteに書くときは、一応これでもどんな言葉を、単語を用いるか、は考えている。
 そしてそうやってまとまった文章を書くようになってそこに自分の過去や思いを投下するようになったら、少しずつ「自分との距離」「他人との距離」をとれるようになってきた気がする。
 それに、自分が自殺するという考えを持つ人間だったところから離れられたし、でも過去に自殺について友人達と話そうとしても「何言ってんの、」「何そんな重い話〜やだあ」みたいな感じで終わっていたところから私は私で勝手に自分のなかで整理しながら書く、書きながら整理して、たまたま私の投稿を読んでくださった方がそれについて反応してくれたりコメントしてくれたり、そうしてはじめて、やはり今でも「自殺」を考えている人はいるし、似たような苦しい思いをしている人は、どこかにいたんだ、と発見できた。
 日々生活していると、様々なことが脳内に混在してごちゃごちゃになって、それが仕事や予定で埋め尽くされればそのまま放置されてしまうけれど、noteに向き合っている時間は、そうした頭のごちゃごちゃを吐き出すことができる。
 文章だって、まだまだ上手に、読み手の欲するようには書けないのかもしれないけれど、慣れにずいぶんと時間のかかる私がやっとnoteに少し慣れてきて書き方を考えたりするようになった。noteで言葉を意識的に選ぶようになったら、日々の生活で用いる言葉も少しずつ意識するようになったし、言葉を意識するようになったら考えることも変わってきたし、考え方が変わってきたら私が変わってきた。私が変わったら周りの環境もかわってきた。
 それらは確かにnoteだけではなく他にも色々考えて変えたことだけれど、思っていることをうまく相手に伝えられずに自分が崩壊していくだけだった私が、マイナス思考を悪循環させて周りの人間関係の手入れをしてこないできた私が、断れないが過ぎていつも何かに巻き込まれるような人間だった私が、少しずつ変わってきたのは間違いなくnoteのおかげだし、彼との思い出を、彼への想いを、上手に言葉にして説明できないしましてや他人にペラペラ何度も口にするようなことがしづらいことを、顔も知らないnoteの向こうの読者の方に向けてなら書くことができた。何度も何度も書いても消化できないけれど、反芻しながら彼のことを書くことで、彼との関係やあの時の私を客観視できたと思うし、忘れたくないと思ったことを書き残すことができた。きっとこれがnoteではなく、自分の手帳や日記に書き残していたら、私自身だけの中で反芻して彼との思い出をただ再体験するだけでループして終わっていたと思う。noteに書き、明確な読み手がいたからこそ、私は過去の恋愛と、過去の自分と少しずつ距離を取れるようになった。


まとめ

 無職になってこの4月で満3年、
4年目になる。
こんな風に足掻いていたことや失恋、自殺しようとしたことや過去の自殺しようとしていた時のこと、それから日々私が考えていることは、家族や友人に話す機会もないし話したところでこれまで理解されなかったり、「重すぎて聞きたくない」と忌避されたり、「何冗談言ってるの」といわれたり、親に至っては未だに私が自殺しようとしていた3度のことや、無職になってからここまでの3年間にあった様々なことを知らない。知らないなりに黙って聞いて傾聴の気持ちを持ってくれるなら、私の過去や気持ちを決めつけないなら話すこともあるのかもしれないけれど、残念ながら小さい頃からそういう関係ではなかった。
 これから変わることもあるだろうけれど残念ながら既に60になろうとしている両親自体を変えることはできない。それならば、他の様々な人同様、その人と心地よく付き合える距離まで離れるしかない。その第一歩として、noteに向き合うことで私だけの時間をつくったことは大きかった。
 他の多くの人と比べれば、私はまだ年齢のわりに幼いのかもしれないけれど、親という評価者とずっと共にいて、その評価によって自分の生きていていい感覚を感じる機会を持てなかった私が親と距離をとり、今まで仲良くしていた人たちと距離をとり、自分と距離を取り、さまざまなことを客観視しながら少しずつ冷静に日々考えられるように、システマ的にいえば「平常心」を保つようになった。そして、人生の中でタイミングをなんだかんだつかんできたわたしは、やはりタイミングよく人と離れたタイミングでそうした考え方に触れたり自分だけの時間をつくったり、どんな人間になりたいかどんな人間でありたいかを考え言語化し、客体化する時間を得た。
 身分はこの3年間無職・アルバイトであることは何も変わらない。そして時間だけがすぎてゆく、もっとこの3年間でできたのではないかということもたくさんある。けれど、それは今の自分がそれなりにしかできない自分なのだということをきちんと事実として受け入れるようになった。私はずいぶん変わった。良い方向に。だから、無職3年は、私にとってかけがえのない時間になると思う。そして残念なことに未だに転職活動を再開できるようなキャパシティを持ち合わせていないため無職4年目になる。けれど、やっと、働き方、どうお金を稼ぐかを真剣に考えようとするべき時が来た気がする。まだ、お金の使い方や貯め方、部屋の整理の仕方からなのだけれど。
 この3年間を親やママ友さんには「何もしていない」「暇そう」「ダラダラして」と言われ続けている。それは一方で正しいけれど、私は私なりのペースでこの3年間でずいぶん人を変えた。人より成長は遅いかもしれないけれど、社会に馴染めず、自立した大人として生きていく技量や覚悟が足りなさすぎるかもしれないけれど、そうしたものはすべて私が私の人生の責任をきちんと担うのだという意識がはっきりと芽生えたのだから、少しずつでも自分自身の幸せを、私自身で満たしてゆけると思う。


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