私たちは分かり合えない。

“無知の知”について、本当に
知っているだろうか?

遠い昔、プラトンが記した『ソクラテスの弁明』のなかで、

ソクラテスの弟子がデルフォイ(デルポイ)の神託で「1番の知者は誰か」と問われ、
「ソクラテスだ」と答えたことをきいたソクラテスが、そのお告げの意味を解明するために、賢者とされる人たちをたずねてまわった。
結果、ソクラテスは、全ての人が「何も知らないのに知っていると思い込んでいるのだ」ということに気づいて「知らないことを自覚している私がやはり1番の知者かもしれない」と思う

そんなはなしがあった。

これがいかに生きるべきかを考えるソクラテスの哲学の基本となった。

画像1

(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ソクラテス)より

実際のところはわからないけれど、
2003年に納富信留氏が、
無知の知とはクザーヌスのdocta ignorantiaが発祥らしくソクラテスとは関係がないから、ソクラテス哲学の時にこの言葉を用いるのはやめよう、
と提案したがなかったものとされたらしい…という過去があるようだ。

渡部(2009)によれば、
ソクラテスは一度も「知らないことを知っている」という言葉を使っていないらしい。彼は、
「「知らないということを知っている」ではなく自身が「ちょうど知らないように、知っていると思ってもいないのだ」(『メノン』84A-B)」(渡部, p182)と述べているとのこと。
本当は知らない事なのに、
知っていると思い込んでいる状態(渡部,p.182)を無知

ただ知らなくて、知らないと思っている状態(渡部,p.182)を不知とした、とのことなので、

正確には無知の知で使われているのは、不知の知というべきなのかもしれない。

これ以上は、私にはわからない。
だが、この考え方、
私は知らないのだ、ということを知っている(認識した、気づいた)という状態は、大切である。

私たちは
実に小さい時から

お互いに理解しあいましょう、

多様性が大事、
相手のことを理解しましょう。

共感(この場合sympathy)が大事!

なんてことを言われる。

親からも先生からも、周囲の大人からも。

そして、当たり前のように
それを受容しようとし、
みんなで仲良くするということは
周りと協調するということは、
相手をきちんと理解する、
わかりあうことだと思っている。

教育の弊害

実際、今の時代の子どもたちが
どう生活しているかはわからないが、

幼稚園や保育園では皆が同じ時間を
共有して同じことをして社会生活を送り

小学校でも、友達と仲良くは
=理解しあう
という意味合いである気がするし
道徳の時間なんかも、

結局は、人の痛みを理解する、
誰かを助けることが善、
それ以外の答えは悪
と言った二元論的な、白か黒か、
そしてその白の答えが教え込まれ、
それが正しいと思わせるような。
そう育ってきているような気がする。

まさに、椎名林檎さんの、
おとなの掟という歌のようだ。

少しこの歌の歌詞を紹介する。

真っ新な子供時代教科書を暗記していれば正解不正解どちらかを選べると思っていた。

正解のない時代、
なんて言われたりするけれど、
本来、今に限らず、正解なんて昔から
ないのではないだろうかと思う。

そして、
“これが正しい”と思っているソレは
その人、にとっての正しさで
それが他の人に必ずしも正しい
というわけではなかったり

あるグループや組織や社会に
とっての正しさが、
全世界のすべての人にとっての正しさ
ではない。

そういうことをふと忘れてしまう。
さらに、本来、
私はこれについて知らないのだ
と対象に気づいていく過程が
教育、学びであるのに、
何かしらの答えがあり、
それを見つけるものと思わされるている気がする。

“正解のない時代”に、思考する上で
大前提は“私は実は何も知らないのかもしれない”“知らないのだろう”と思うことで、それを
知る、思考することだ。

正確にはもう少し前からだと思うが
2000年代初期あたりから
教育では異文化理解やコミュニケーションがどうのといわれはじめ、

「異文化理解」と「グローバル教育」
という2つの言葉が教育界を闊歩し、
あるいは言葉だけがどんどん一人歩きし、もちろん異文化理解教育や
コミュニケーション教育の実践はあれど
それらは、どんどん世界、すなわち海外
に対する眼差しとして向けられ、
そこにはどこか前提として、
私たち日本人同士は、またはもっと言えば、ここで隣で学ぶお友達同士は理解し合っている、というようなものがある気がする。

3.11と“絆”

それ以前までは、あまり意識したことがなかったが、
2011年、東日本大震災以降、特に
「日本人は」「私たちは」「あの震災を乗り越えた私たちは」
そんな言葉と共に絆、という言葉が異常なほど多用され、わたしはその重みが消えていく感覚を感じていた。

あの、復興の時の“私たち”は、
「同じ経験をした私たち(日本人)」
という意味合いをどこか感じていて
でも、実際のところ、
あの時、東北にいた方と東京にいた方と
横浜にいたわたしと、沖縄にいた方
もっと言うと東北だって
学校にいて被災したティーンエイジャーと
会社で被災した誰かのお母さんと
家にいて被災した誰かのおじいちゃんは
本当は別々の物語を持っていて、
それでも、彼らは同じ被災者としてくくられる。

そして、被災した東北の方々という
まとまりになり、それが
あの大きな災害を乗り越えたわたしたち日本人、
になる。
本当は、それぞれに違う物語を、
違う歴史を持っているのにもかかわらず。
それを示しているかのように、
3.11の絆の後ろでは、
“無縁社会”という言葉が出た。
絆、キズナ、kizunaという言葉で
まるで日本人(もっと言えば本来、日本にいる人々は多様なのに、日本人と言えてしまう私たち)は皆1つ!と、それが正しいというように、いや、そんなことをできている私たちは素晴らしいというように進んでいった。

そして、なにより
“絆社会”の住み着く前から
他者理解、他者とわかりあう、
ということを善としてきた、
正しいと思ってきた“わたしたち”は
わかりあうことに努めた。
そして努めている。

何もこんなにも大きな災害の時だけではない。

先にも言ったように、
お友達を理解し合うことを善とし、
理解することが正解だと
思ってきた人々は、
理解できることをゴールとし、
理解できたと思うことを目的とし、
理解したと実感するまで理解しようとする。

もちろん、それは
他者をむやみに否定することより、
ずっといいのかもしれない。

自分が正しい、自分たちの規範が正しい。
だからそうでない彼らは間違えている。

村上春樹が、『アンダーグラウンド』の「目じるしのない悪夢」で言っていたように、
犯罪という側面を一度
取り除いて仕舞えばオウムの時だって

オウムの彼らvs私たち
という対立のなかで、
“正常”な私たちと、
“異常”な彼らという対立を
生み出し、彼らを排除することで
私たちはまとまろうとした。
正確に言えば、
マスコミがそういう風に仕向けた通りに
動いた。9.11だってそう。
分かり合えないものは、排除する。

そうして、オウムの大きな物語に
飲み込まれていった信者たちの
鏡像のように、我々は
マスコミ(世間)という
大きな乗合馬車に乗って大きな物語に
飲み込まれた。

そのような意味では、一人一人の個々の別々の背景という側面から社会を見ているのが小説などの小さな物語である。

SNSと共感

LINE、Twitter、Facebook、そして Instagram、SNSが広まって、

友達と、その他の人と気軽に繋がったり切れたりできるようになり、
いいね(ふぁぼ)ができるようになった。

特にInstagramの進撃はすごい。

写真とハッシュタグで思い出を残したり
そしてそれを見る人がいて、自身も人の写真を見て、♡を押して共感を示したりする。

そして、インスタ映え、リツイート、
シェアによって広がっていく仕組みにより、
共感は、もはや無意識的なものではなく
意識的に、戦略的につくりだすもの、
となった。
今まで“創り手”でなかった一般の人々も“創り手”となり、発信し、まさに誰もが、発言できる世界が、
当たり前にある。

共感できることがコミュニティをうむ。
私たちは理解し合っている、という一種の連帯感、仲間意識を無意識のうちにつくりだしている。

そして、私たちは
今や、世界の人と“分かり合える”社会
にいるような気になる。

その一方で、SNS疲れ、
SNSによるいじめ、またはもっと大きく
差別、暴力、戦争は消えてはいない。
こんなにも、世界の人々とまで、
“分かり合える”はずなのに。

インスタ映えしても、Twitterでバズっても、Facebookのシェアがすごい数になっても、もしくは他はあまりわからないが、
「絆」という、
きれいな包装紙の中の社会は、
仲間意識と仲間はずれ
グループ内とグループ外
私たちと彼ら
ティーンエイジャーや20代と
昔を生きた化石の方々(この言葉はあえてつかわせてもらう)
昭和と平成…に包まれている。

そして結局、令和になる前に
平成の30年を振り返る番組で盛り上がり、昭和代表vs平成代表などという
無意味な二項対立図で、
平成生まれの知らない昭和の常識で
昭和の人たちの幾ばくかは楽しみ、

理解し合おう!共感!絆!仲間!
という一方で、
わたしvsあなた、私たちvs彼らという
関係性を結局はそのまま楽しんでいる。

それは、まず根本的に、
“分かり合える”
“理解し合える”
の言葉の定義と言うべきか、尺度を、
考え方を間違えているからではないか…

私たちは理解はできない

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