人の考えを、噛み砕いて伝えること
次年度の仕事も、今のままで、
時間を増やしたいとお願いしていたけれど
あなたにお願いできる仕事はないから3時間×週3のままで、と言われた。
上司との面談で、上記の内容と共に
「大学院まで出て、英語の専修免許まで持っているのに、こんな仕事をお願いしているのは、こちらも申し訳ないなと思っているんだけれど、頼める仕事がないのよ、このままだと○○さんも(わたし)お金稼げなくて大変でしょうから、他の仕事探してどこか活躍できるところに移った方がいいんじゃないかな」
とやわらかい口調で言われたけれど、
直訳すれば、
お前は院卒英語科専修免許を持っていて、教員として雇えるだけの能力があれば雇えるし、他に事務経験以上のPCスキルなど大変優れた何かがあれば非正規雇用でも長時間でお願いできることはあるが、現状のお前のスキルでは何もできる仕事はない、今の仕事今の給与今の労働時間なら雇ってあげられるけれど、それ以上を望むならここではお呼びではないから他のところにいって、
ということだ、
ということくらいは、さすがに30歳だし、私にもその意味はわかった。
せめて、司書教諭か司書の免許をもっていたら、附属の小学校の方で司書が必要で募集しているからそちらをお願いできるんだけど、とのことであったけれど、わたしは結局司書免許も司書教諭免許もこの2年間に取らなかったから、お呼びではなかった。
もともと、人より、平均より全くできなくて、そもそも"普通の、人間らしい生活"すらまともに送れていなくて、自立した大人としての生活には何一つ足りないことは自覚していたし、自分がどれほどできない人間なのか、分かっていたけれど、
あらためて、必要ない、と社会にいわれるたびに、
なぜ生まれて来てしまったんだろうと思う。
けれど、なぜ生まれてきてしまったのだろうという気持ちに覆われてただ悲嘆に暮れてしまうほど若くはなくて、
そういうふうに考えている時の自分をメタ的な視点から、何言ってんだこいつ、と思う。自業自得だろって。
例えば、親愛なる友人。彼は、やっぱり、自己評価としても、上司からの評価としてもできないことは一定程度あるし、管理職も彼を素晴らしい人材として評価しているわけではない、けれど、教員として雇われ、新卒から来年度で7年目、今の職場で5年目を迎えられるということは、やはりわたしのように「必要ない」と切られる人材ではなく、
教員としての資質や、社会人としての資質に、何かしら欠点があったとて彼に月40万ほどの給与を払ってでも雇うだけの能力が、あるから雇われているのだ、ということくらいわたしも分かる。
そして、わたしには、この何かしら欠点があっても、正規社員として職員として雇うメリットが一つもないから、この6年間、どこの会社にも学校にも、正規雇用されてこなかったのだということも。
自分の無能さに辟易する。それでいて、それほどできないのなら、せめて必要な資質能力に足りていないところを身に付けるために、人の何倍も努力しなくてはならないのに、わたしには、その気概や努力できる力も根性もない。自業自得。
多分、通りすがりの100人に聞いたら、99人は、間違いなく、「甘えてんじゃないよ」というし、そのうちの90人くらいは「甘えてんじゃねーよ」と殴ってくる、くらいのものだろうという自覚もある。(100人中1人くらいは、そんな言葉を言わずに"やさしい"言葉を選ぼうと努力してくれる世の中である気もしている。その人が本当に優しいかどうかは別だ。その、"やさしい"言葉の人のなかには、50:50で大抵"他人のことはどうでもいい"から、「お前のことなど知らんわ」という意味でまあ、仕方ないんじゃないかな、という場合が多いと思うから。)
30歳だし、ここでは、今の仕事以上にはお願いできないから、いまからでも、まだ活躍できる場所を探した方が、という"やさしい"打診だった。
次年度の時間を増やしたいという理由が、
「学校も予算の問題もあってね、なかなか難しくて」と言われたのが、実際は、そういう理由でないと分かったのは、もちろん言外の意味がわたしに分かっていたからなのだけれど、
同時に、現在一緒に勤務している司書の方の労働時間が次年度から4.5時間×週4から5時間×週4に増えることを知ったからだ。今年度より次年度、その方の労働時間が月に8時間分増える。それでいてわたしの労働時間は予算の関係で増やせない、なんてあり得ないわけだ。教員の数だって決まっているし。職員だって数が決まっているし入学予定者もわかっているわけだし。
何にもできないまま6年間の無職を過ごしてしまって、わたしは結局、何にもできないままただ時間が経過しているだけなのだなと思う。
親愛なる友人を見るたびに、
福島の友人の働きを見た時に、
Facebookなどで活躍する同級生たちを見るたびに、
新しい進路に向かう人たちを見た時に、
自分が、この世界で、まともに雇ってもらって働いていけるのに、必要な資質能力を何一つ持っていないのだと、思う。
それならば、その、必要な資質能力なるものを、結局身につけなければ、生きていけないということも、頭で同時に理解するのに、理解するはずなのに、この6年間、何も、身につけてこなかった、ということではないのか。
先ほどの、上司の言葉の、
お前は院卒英語科専修免許を持っていて、教員として雇えるだけの能力があれば雇えるし、他に事務経験以上のPCスキルなど大変優れた何かがあれば非正規雇用でも長時間でお願いできることはあるが、現状のお前のスキルでは何もできる仕事はない、今の仕事今の給与今の労働時間なら雇ってあげられるけれど、それ以上を望むならここではお呼びではないから他のところにいって、
という意訳は、
もっと詳しく言えば
お前は、院卒で教員免許も持っているけれど、教員として雇える能力はない、2021年に、「誰でもできるけど教員があまりにも忙しくて手が回らない雑務中の雑務」に人手が必要だったから、友人の紹介で雇って処理してもらって、雇ったからそのまま他の業務も含めてここまで非正規で雇ってきたけれど、お前はそういう「その辺の中高生(=全く働いたことのない人)を捕まえて、時間ないからこれやっといてくれる?と頼む程度の仕事」以上のことは何もできない。にもかかわらず、高校生ではないからアルバイト代が高くつく。だから、今の仕事以上や今の給与以上を求めるなら、うちでは他の、3時間×週3でいいという他の人材に代替できるから、やめて他のところへ行ってくれ、それが無理なら、いやなら、何も言わず今のまましか無理だ、
という意味であることは、私にも分かった。
ただし、ここで問題なのは、
わたしが中高生ではないということ、
ましてや18歳や20歳など若くて、まだこれからやり直しが効く人材でもなければ、
社会に出たばかりの新卒世代でもなく、30を超えているという点だ。
30歳を超えた、
院卒の仕事ができない人材は、
邪魔なだけだ。
それくらい私にも、わかる。
今の仕事ですら、満足に業務をきちんとやれているという自信がない。
受け身だし。言われたことで、本当に誰でもできる作業を、ただ淡々と、作業のように3時間こなしているだけだ。
今なんかは、司書の方々がいらないと選別した書籍を、ひたすら、括ってゴミに出しに行くだけの仕事。
その辺の小学生を捕まえてきて、やり方を一通り教えたら、小学生でもすぐできる仕事。
それに、今以上にお金を払って労働時間を増やしたりはできない、当然のこと。
わたしもわかる。
むしろ、作業内容からして今の時給は、かなり恵まれている。最低時給程度でも問題ない作業。
分かったら、黙って自分にできるだけの、そういう作業を、相手がこの時間この給与までなら出してあげても良いと言ってくれている分だけで働け。
文句があるなら(もっと稼がなければと思うなら)他の仕事を探しなさい、
当然だと思う。
私は結局、新卒から6年間、何も得ないまま、
むしろ体力もメンタルも
回復するどころか悪化させて、
時間と共に、英語力も知識も専門分野の知識もなくして
若さもただ失って
新卒の時からどんどん、状況は悪化している。
親愛なる友人に、前に
お前は不登校の子と同じだ、と言われたけれど、
状況は、不登校の子よりずっと悪いよね、と
このことを話したら
と返ってきた。もちろん農家の方が、誰でもできること、と言っているわけじゃない(とわたしはこのLINEでわかるけど、存外わからない人もいるのだと気づいているので付け加えておく)
先ほど、親族のLINEで、祖父母の十三回忌を、今秋執り行うので、十三回忌をしきる、祖父母の長男である叔父から連絡がきた。
(日付は隠させてもらいます)
このLINEを見て、仮に仕事が入る可能性があったとしても、仮に何か重要な外せない用事があったとしても、現3月の時点で、この日程のなかなら、とりあえずこの日が都合が良い、というのを連絡する、または全日問題なければ「全日問題ないです」と連絡をする、もしくは「まだ仕事の日程が定まっておりませんので、変更があるかもしれませんが現時点では以下の日程が都合がつきます」といったように返信すればいいことは社会人になっていないまま30歳になったわたしにだってわかる。
それこそ、叔父のように主催者だったりしない限りは、通夜でもお葬式でもなく十三回忌なわけだし、一人親族が来られない程度なら、なるべく多くの人の都合がつく日程で行い、来られない人は仕方ないね、で済むことくらい、このLINEだけでわかることだと思う。
だが、弟が母に個別LINEで「そんな先の話されても都合なんかわからんから返信できんからスルーしてる」と言ってきたという。
社会人だろ、ホウレンソウはすぐってわからんのか?とわたしは思ったし、
さらに加えて弟から「てか、勝手に日程決められてんのなんで?こっちの空いてる日聞かれてないんだけど」とLINEがきたという。
母は、それを見て、
「なんでこんなこと言ってるのかわからない!主催するおじさんが決めるのは当たり前のことじゃん!日取りだって、お寺さんが空いてる日程と擦り合わせてあけられた日なんだから、なんで○○(弟)にいちいち聞くのよ、何言ってんの」とその場にいない弟に対するイライラを、わたしにぶつけてきた。
この時点でまず、弟がおかしい。というか世間ズレしていると思う
それはおそらく、世間の大多数の人からしてそうなんだと思う。いわゆる"常識"や"通念"がわからんのか!ということだと思う。
一方で、
わたしは、弟の思考を、理解できる。
弟は、なぜか以前から、こうしたことに対するいわゆる"一般常識"と世間に言われるようなものがない。
たとえば結婚の前に、ご両親に挨拶にいく、両家顔合わせがある、
そうしたものは、もちろん、
現代でこそ、"当たり前"とは言わないけれど、
一般的にいったら、執り行うもので、
それは結婚というものが単に個人と個人の結びつきというよりは、
日本においては特に、家族同士のための儀式のようなもの、
というところから、
おそらく多くの人が特に疑問なく、
まあ、行うものだろうと思ってやっているだろうし
それをしたくない人というのはいたとしても
そういう人は「一般的に当たり前だとされているその当たり前を私たちは受け入れたくないんだ!」という意思のもとでだと思う。
でも、弟の場合そうじゃない。
そもそもその、
一般的に執り行うもの、という認識がない。
一般的にやるけど私たちはしたくないからしないのよ!という強い意思ではなくて
え?なんで俺たちが結婚するのに両親同士会う必要あるわけ?俺たちと関係なくね?
と、本気で心の底から思って生きてきているタイプの人間なのだ。
そういうタイプの人間には、
「一般的にこうするのが当然でしょう」とか
「こうするのが通例でしょう」という意見は
全く意味がない。だって、通例が嫌だから否定しているんじゃなくて、そもそもその通例が、思考に置かれたことがないわけだから。
わたしは、少なくとも弟はそういうタイプの人間だと思って接しているから、弟からこういうタイプのことを言われた場合
この人のなかでは、こういう思考には至らないんだな、というのを受け入れた上で、
あなたはこういうこと考えたことがないかもしれないけれど、
叔父さんや、お母さんみたいな人は、こういうふうにしてほしいんだよ、と話す。そうすれば、
もちろん、俺はそれは納得できないとか、意味わかんないけどこうしてほしいってこと?と話が進む。
当たり前だという言葉は、彼には通じない。だって彼の思考にはこれまでも今後も、その、いわゆる通例みたいなものが“通例"という言葉で理解されることはないから。
でも、母は、この、弟が、そういう通例みたいなものを認識できない人間だ、とか、一般的に多くの人はこういうふうに考えているもので、それと違うことをわからないんだよと、弟のその思考回路を理解しようと思うことなく、
「当たり前のことなのになんでいちいちこういう言い方するの!!」と、ただ感情的に怒る。
その母もまた、
いわゆる、昔からの慣習みたいなものは、無意識的に受け取ってきた人間だから、
通例みたいなものは何も疑問を思ったことがなく受け取ってきてしまっているタイプで、
だからたとえば
女性だからこう、と言われるのが嫌、
とか、
わたしは心は女性だけど、男性の身体に生まれてこうやって生きているとか、
結婚してなんで男性側が苗字変えちゃいけないわけ?
みたいないわゆる近年の"新しい価値観"と言われているそれが
理解できないし、
自分が理解できないものをただ否定してはいけない、という認識もないから
自分の中の"常識"=世間の常識、変わることのない当たり前のこと、
と思って生きている。そして生きてきたし生きてこられてしまった。
だから、そういう世間の中で"常識"とか、“通例"と言われるものに苦痛を感じたり、おかしいと感じて、
嫌だという人や、苦しむ人のことを、
全く想像ができないし、そういう人を見たら、
「この人がおかしい」
「異常な人間だ」
としか思えない。
だから、わたしのような人間も、
彼女にとってはかなり異常で、
なんとか、“普通の“人になってほしいと小さい頃から思われて育てられてきたんだと思う。
私は、彼女のいうその、“普通"になれなくてずっと苦しんできたんだろうし。
つまりここで問題なのは、
弟は弟で、社会通念らしきものと自分の思考は離れているかもしれない、とか
社会通念までいかなくてもとりあえず
母親と自分の思考回路は違うようだ、と認識して、
この人の常識やこの人の中の思考回路だと、こういうふうな常識で生きていて、こういう性格だからこういう発言なんだろう、
と考えた上で接すればいいのにそれができないし、
自分が、いわゆる“世間一般"の考えとずれているかもしれない、
と疑問にすら思ったことがなくて、
その上、私の母は、わたしの母で
自分の常識が相手には常識ではないかもしれないとか、
世代が違ったら考え方は違うかもしれないとか
この人はこういうふうに考えて発言したのかもしれない
と想像すること自体もしない。
この2人が、会話をしたら、
齟齬とぶつかり合いしか生まれないのは当然ではないだろうか。
母と弟間だけではなくて、兄はそんなに口数が多くないので、
小さい頃から、母と弟の間に入って
母と父の間に入って
父と弟の間に入って
または、父と母と弟の間に入って
いつも間に入って仲介して生きてきた。
少なくともわたしから見たコミュニケーションは、こういう形で行われていた。
(しかし、我が家族は、その認識すら持てない)
いつも、間に入って生きてきた。
それは、三人兄弟の真ん中の運命だったのかもしれないし、
女ひとりの兄弟に生まれた宿命かもしれないし、
「みんなと仲良くしなさい」と小さい頃から言われてその通りに生きていく中で身につけたものだったかもしれない。
自分には理解できない思考で生きる人間にも、
いつもこの子はこういう考えで今こういう状況だろうから、こういう言葉かけがいいだろうとか
この子の性格上、こういう言い方は逆効果だからこういう言い方をした方が良いだろうとか、
わたしにとっては当たり前に考えられることが、
周りの人にとっては全く当たり前ではない、
ということに気づいたのは20代後半に入ってからだったかもしれない。
人にできないことが出来る、それが仕事になる、
とわたしは考えている。
果たして、じゃあわたしはなんの仕事なら、
出来るのだろうか。
これからそれを考えなくては、
わたしはいきていけない。
そして、おそらく、わたしがこういうことに、
他者評価で「長けている」と言われるのは、
わたしが「他人のことは理解しているとは誰も言えない」「どんなに近しい間柄でも、他者とは理解し合えない」という前提に立って生きてきたからで、わたしにとって当たり前のその思考の回路は、他者にとって当たり前ではないようだとも、また気づいた。
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