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無職の戯言

「生きたくないことと死にたいことには、違いがある、と私は思うのだよ。そこをいっしょくたにしてはいけないと。
うまく言えないけどベクトルが違うのだよ。
“生きたくないけど死にたくない”ことと、“死にたくないけど生きたくない”ことも違うと思うのだよ。」


2018年の10月19日、
ニュースを見ていて
私はこう思ったらしい。

何故そう思うかといえば

わたしをみて、わたしと話していて
死にたいと思ったことがある
人間だとは
もう生きているのが辛いと
思ったことがある人間だとは
おそらく誰も、思わないから。

もう1つは、
教職課程を履修していた時に、
悩める生徒にどう向き合うか
という授業内容の時に
教職課程の先生に、

サインを見逃さない、
そういう生徒はサインを出している
と言われたことを疑問に思ったから。
ごく一部の友人を除けば、
私が生きているのが辛いと言っていた時
本当に辛いと思っていたことを
感じ取ったり、言葉や行動から
キャッチした友人はとてもとても
少なかったと思う。
本当に、
生きているのが辛いと、思う人は
そんなサインを出しているのか。
冒頭の文に続けて、こう書いてあった。

自殺した人のニュースを聞くたびに
わたしは思う。彼は、彼女は、
生きたくなくて居なくなったのだろうか、
死にたくて居なくなったのだろうか、
それとも、生きたいけど生きられなかったのだろうか。

どちらが深刻とか、どちらがどうとかは特にないけど、なんかニュースを観てて自殺のニュースとかでさ、
なぜ彼は(彼女は)死ななければ
ならなかったのでしょうか、
彼女を苦しめたものとは、
とかいうでしょう?
あの言葉に違和感がある。

自殺にも自殺未遂にも、または
そうした行為にも、もう死にたいだとか
生きていたくないだとか思うことにも、

①こういう時やこういう時間は楽しいと思うのだけれど、なんらかの苦しみがそれを凌駕するために生きてはいられない、無理だ、死のう

という思考過程と

②死にたいなぁ、

という積極的に死へ向かう思考過程

それから
⑴本当は死にたくなるほど、本当に苦しいのだけれど、生きたい理由を捨てきれずに生きていること


⑵積極的に(positiveなベクトルで)生きたいと思うことには、
それぞれちょっとした、でも決定的な違いがあるんじゃないかと。

その中で、自殺という面で考えた場合、
死にたいなぁと思ってそこへ向かうことを
仮に“positive suicid”とでも名付けたとしたら、
そうではなくて、苦しみ苦しみ苦しみの果てに、生きているのがもう本当に耐えられない…この耐えられない苦しみをどうすれば解放できるのだ…ああ、そうだ
生きることをやめるしかないのだ、
と、苦しみの果てに死を選ぶことを
仮に“passive suicid”とでも名付けたとしたら、

その2つは、同じ「自殺」という行為だとしても、全く別のものであるはずだ。

でも、生きていることや死ぬこと、
自殺のニュースにおいては、

その違いが取り上げられることはなく、
ただ例えば
自殺した青少年のニュースが流れれば
「なぜ死ななければならなかったのでしょう」などという問いかけだけで
結局のところそれより先には
いっていない気がする。

自殺する人が本当に皆、
死の淵にいる時苦しいのかな?
生きていたくない、こんな地獄は無理だ!と思って死にゆく人と
特にこれといった理由があるわけじゃないけれど死にたいと思う人が
自殺した場合、この
ちょっとした違いは、
どこに葬られるのだろう。

と。

これらをもっと単純な言い方で言えば
「ああもう生きていたくない……」
とふらふら歩いて屋上にたどりついて
地上を見下ろす時と

死のう!と思って地上から空を見上げる時は、
言葉では説明できないのだけれど、
少し違うんじゃないかと思うし、

さらには、
見下ろしてそこで終わることと、
実際飛び降りてしまったりして
結果として死んでしまうことは
はっきりと違うと思っている。

(写真2)

実は、このことに関しては、
小中学生の時から、
はっきりと言葉で表せてはいないものの
頭のどこかでこの違いについて
ずっと考えてきた。

小学生の時、中学生のとき、高校生のとき、死にたいなぁと思って外を見たあの時々と、

大学生の時に、もう生きていたくないなぁと屋上から下を見下ろした時は、

もしくは、

高校生くらいの時に、本当に「無理!」と思いながら刃物を腕に当てて、その冷たさで死にたくなくて怖くなったことと、
院生を経て今、強く生きたい、
と思うわたしは、

もちろんその時々で年齢、状況、
やりたいことや叶えたいことの有無、
それへの想いの強さなど違うのだけれど

でもやはり、
生きたいと思って生きていることと
生きたいわけじゃないけど、生きていることと

死にたくて死を選ぼうとしていることと
生きたくなくて死を選ぼうとしていること
は異なると思う。

だから、自殺などのニュースがある度
「なぜ周りは気づけなかったのでしょう」なんていう趣旨の言葉を聞くたびに、違和感を感じるのかもしれない。

もし本当に、孤独に1人苦しんでいて、
死を選んだ、という人がいて、
周囲が気づけるほどのSOSを出せているのなら、
そもそもはじめから、
1人苦しみながら死を選ぶほどの
深刻な事態になる前に
誰かに相談したり、
周囲の人が気付けたり、
するのかもしれないし、

笑って生きている人が、
寿命が尽きて死ぬ時に、実は「ずっと本当に苦しかった。」と書き残す場合
だってあると思う。

その差や違いが、
「生きている」、「死んだ」
という事実のみをあらわす言葉に
覆われて、
そして亡くなってしまった場合、
後付けのように生きている側の人々が、
その亡くなった人が残した、ものや想いを推測したり考えたりすることは、

倫理的、道徳的、教育的には大切だったり、
意味づけをしないと生きている側が納得できなかったり、するのかもしれないけれど、

やはりどこか、生きている側のエゴ、
いやエゴ、という言葉ではなく、
“エゴイズム”ときちんと表現した方が適切か、
そう感じる時があるのだ。

そして、絶対ではないにしろ、

「生きていたくないなぁ」だとか
「もう死んでしまいたいなぁ」だとか
言っていた彼や彼女に対して
“傍観者”という立場から動かなかった周囲の人の、
「何そんなこと言ってんのww」
という人たちに追い詰められた結果に彼や彼女のなかに

“積極的”にしろ、“消極的”にしろ、
死を選ぶ人がいるのだと思う。

それでもやはり、
そこで死を選んでしまうことと、
選ばないことは、

殺したい!と思って実際に人を殺してしまうことと殺さないことの差と
同じくらいに異なる気がする。

これらの事柄を集約していくと、

「あんなに楽しそうにしていたのに
なぜ自殺してしまったのか」だとか

「あなたって本当に何も考えず呑気に生きてるよね」だとか

「死にたい?何をそんな悩んじゃってるのよ〜!大げさなこと言わないでよ〜笑」
だとか、

そんな周囲の人の言葉は、空虚に感じる。

もし、先の
⑴本当は死にたくなるほど、本当に苦しいのだけれど、生きたい理由を捨てきれずに生きている人の場合、
最後の希望、生きたい理由が、
消えてしまった瞬間に、
全てを終える覚悟が
できるかもしれない。
その前に、助け出す。
それが本当の意味で、
(1)の場合の人を助けだすための
いわゆる「サインを見逃さない」
だと思う。

でも、そのためには、
明るくしている時も、
本当に楽しそうな時も、
ちょっとつまずいた時も、
隣でそれを、見守りつづけている
必要な時にだけタイミングよく、
その人に必要なだけの重い言葉を
かけられる。
普段から挨拶程度の言葉を、
声をかけられている側が嫌な思いを
しない程度にかけられる

そういう存在が必要なのだと思う。

とても難しいことだけれど。

ここまでこんな風に
考えてきたけれどね
それでもね、やっぱりね、

生きることを
とりあえず選ぶことと

死を選んでしまうことは

やはり決定的に違うからね。

p.s. 過去のわたしへ

死んでみたらどうなるのだろうとか
もう生きてるの辛いなぁ、とか
今、ここから飛び降りたら
イマココのわたしが抱える苦しみは
消えるんだよね、
だとか
そんな風に、
何度も、様々な要因で、その時々に
迷い、苦しみ、
誰にも言えず
または、やっと誰かに伝えても
本当だとは思われていなかったり
どう言葉にすればいいかわからず
相談の仕方がわからず
一人で悩んで、やっぱり苦しすぎて
それでもどうしても
生きていたい理由を捨てきれずに、

死を選ばず、苦しみながらも生きてきた過去のわたしへ。

そんな私は、大学院という道を見つけ、進学してからは、
死にたいと思うことも、
生きていたくないと思うことも
なくなったよ。

無理をしすぎて、過労で倒れて
死んだかと思ったような経験も、
したけれど、
私は、いま、生きたいと、強く思うよ。

公開しているところで書くのは、
やや恥ずかしいし、これが全世界に、
そして永遠に残ると思うと、
少し迷ったけれど、
それでも、きっとずっと、
こう思っている、今の気持ちは
変わらないから、書いておくね。
将来、そんなことを、
恥ずかしいなぁ、
なんて笑えるわたしは多分、
幸せに強く生きたいと思って生き続けているから。

今、好きな人を、
好きになってから、
私は、死にたいと一度も思ったことはないし、逆に生きたい、と強く思うよ。

生きたい理由なんか、つけようと思えばいくらだって挙げられるし、
生きてる間にやりたいことだって
たくさんあるし、
かといって
好きな人がいるから生きたい、
というのは少し違うけれど、

好きな人のことを、
尊敬しているから、
この人の友人でいて恥ずかしくない
人間になれるように生きたい。
私も、あの人が頑張って生きているのと
同じくらい精一杯生きたい。

笑って、楽しく、幸せに、
強く、
少しずつでも、立ち止まっても、
悩んでも、
それでも

いまの私は
生きたくて生きる
という選択を、毎日、無意識に
続けているよ。


なんだか、
訳のわからない御託を並べて
しまったけれど
どうか、無職が、戯言を言ってらぁ、
と思ってほしい。

(一応、記しておくが、無職ではあるがニートではない。)

#生きること #死ぬこと #生きたいと思うこと #死にたくないと思うこと #生きたくないと思うこと #死にたいと思うこと #生と死の狭間 #思いつき以上思考未満
#自殺


〈参考文献〉
トップ画像
https://publicdomainq.net/cliff-man-0012244/ (2019年7月4日閲覧).

写真2
https://www.photo-ac.com/main/search?q=死+苦しい&qt=&qid=&creator=&ngcreator=&nq=&srt=dlrank&orientation=all&sizesec=all&mdlrlrsec=all&sl=ja (2019年7月4日閲覧).

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