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顔を隠された王様 羊ならぬ、鹿をめぐる冒険

以前の記事で国歌「君が代」をとりあげました。その歌詞には続きがあり、そこで歌われる九州の王様、安曇磯良を紹介しました。

今回は上の記事の続きになります。君が代で歌われた「安曇の君」に迫っていきたいと思います。

神楽で演じられる際は必ず顔を白い布で隠される安曇磯良。その姿はいやがおうにも人の目を惹きつけます。眼光鋭い古代史研究者がこの異様な存在を当然見過ごすはずもなく、ネット上では安曇磯良についてさまざまな考察がなされています。

数多く残されている安曇磯良の伝承で僕が注目したポイントは、福岡県久留米市、高良大社に残る「高良玉垂宮神秘書」の一文です。
アントンイソラ(安曇磯良)と申すは筑前国にては志賀、
常陸国にては鹿島大明神、大和国にて春日大明神と申すなり。
一躯分身。同体異名の御ことなり。

またこれと同様のことが袋中良定という人物が記した「琉球神道記」にも書かれています。
鹿島の明神は、もとはタケミカヅチの神なり、人面蛇身なり。
常州鹿島の浦の海底に居す。一睡十日する故に、顔面に牡蠣(かき)
を生ずること、磯のごとし、故に磯良と名づく

また「太平記」の神功皇后のエピソードでも安曇磯良が登場します。
神功皇后が三韓出兵の際に、神々を常陸の鹿島に招いて軍評定を行おうとしたところ、海底に住んでいる阿度部(あとべ)の磯良という神だけが、顔に貝がビッシリと付着していることを醜いと恥じて、最初のうちは海中より出てこなかった。

琉球神道記や太平記の内容から察するに、どうやら安曇磯良は鹿島の海底に住んでいたようです。これは以前記事に書いた鹿島神宮の本当の主祭神は鹿島の海底に沈む大甕であるというエピソードにも繋がります。
以上のことから安曇磯良を祖とする安曇族は九州から東国常陸にやって来ていることがわかります。そして鹿島の地で祖神である安曇磯良を祀ったのでしょう。

僕は生まれが茨城県鹿嶋市の隣なので、幼い頃から鹿島神宮はとても馴染み深い神社でした。そして鹿島と九州がつながることに関して特に違和感は感じません。
前々から、その親和性に気づいていました。

まず地名に共通点が見られます。
熊本には嘉島町がありますし、南に下れば鹿児島、そもそも安曇氏の本拠地、志賀島(しかのしま)から鹿島が派生したとも考えられます。現に志賀海神社には鹿角堂があり、そこには1万本を超える鹿の角が奉納されています。

山野草、植物めぐりより引用

安曇磯良の君が代が歌われる山誉祭でも、鹿狩りにおける狩りの安全と豊猟を祈願して矢を射ます。志賀海神社と鹿は密接な関係にあると言えますね。
鹿島神宮にいる鹿も、たぶん安曇氏が九州から伝えたものでしょう。

鹿島は古来「香島」と表記されていました。常陸国風土記の表記も「香島」です。
それが「鹿島」と改称されたのが723年のことです。記紀ができて間も無く、おそらくは安曇氏の歴史を考慮しての改称だったはずです。

では安曇氏の本拠地、志賀海神社で奉納される鹿、そして鹿島神宮で神の使いとされる鹿。この鹿の意味とはなんなのでしょう。

安曇氏は九州発祥とされていますが、僕はもっと西から来たと考えています。
地元の伝承では安曇氏は古代中国、呉・越時代の呉王朝の末裔で、王朝交代の混乱に伴って日本列島に亡命してきた一族と言われているそうです。
その伝承から後漢書東夷伝で記述のある1世紀の奴国は、安曇族が建てた国ではないか?とする説があるようです。
実際にこの奴国にまつわる国宝が安曇氏の本拠である志賀島で発見されています。
教科書にも載っているものなので見たことある方も多いと思います。

漢委奴国王印。おなじみですね。これが志賀島で発見されました。
後漢書東夷伝に記述のある、後漢の光武帝が建武中元2年(西暦57年)に奴国から来た朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印が画像の金印に相当すると考えられています。

九州の地元の伝承によれば安曇氏は呉王朝の末裔ですから、
出自は中国の江蘇省蘇州市になりますね。

地図で見ると上海の近くですね。ここから船で渡って福岡の志賀島にたどり着いたのでしょう。しかし僕はもっともっと西を想像しています。
安曇氏の出自。そのヒントがどうも鹿にあるような気がしてならないのです。

ここからさらに安曇磯良を深掘りしていきます。
民間伝承では安曇磯良は海神豊玉彦の子孫であり、豊玉姫の息子とされています。
豊玉姫の息子にはもう一人ウガヤフキアエズという神武天皇の父がいますが、
このウガヤフキアエズと安曇磯良を同一神とする説があるのです。
安曇磯良の別名を磯武良(イソタケラ)と言い、ウガヤフキアエズの別名を波限建(ナギサタケ)と言います。磯と渚は同じ意味ということで同じ神なのではないかという説です。この伝承が本当であるならば、神武以前の王朝であるウガヤフキアエズ王朝もこの国の歴史から隠されていますから、顔を隠される安曇磯良の歴史と通底するものがありますね。

僕自身は安曇磯良=ウガヤフキアエズ説が真実かどうかはあまり考慮していません。それよりも磯良が豊玉姫の息子とされるところに関心があります。
調べる対象が古代に遡れば遡るほど、そこに登場する女性の存在が重要になってきます。古代とは女性祭司王が男性統治王よりも優位だった社会です。権力は男性よりも女性のほうにありました。
神武天皇も最初から天皇だったわけではありません。日向から東征し、大和の地で出雲王家の女神、ヒメタタライスケヨリヒメを妃に迎えたことで天皇に即位することができたのです。だから古代の歴史を調べるためにはまず女性に視点を向けなければなりません。

ではこの豊玉姫はどんな女神なのでしょう。

豊玉姫とは綿津見神、豊玉彦の娘であり、ウガヤフキアエズの母でもあります。民間伝承ではウガヤフキアエズ=安曇磯良となりますが、民間伝承によらずとも、豊玉姫の弟に穂高見という、こちらも安曇氏の祖と言われる神がいますから、いずれにせよ安曇氏の源流となる女神だと言えそうです。

ネットで豊玉姫のことを調べていると、卑弥呼と関連づける考察を非常に多く目にします。卑弥呼は豊玉姫であるとか、次の女王、台与(とよ)が豊玉姫であるとか。

古代の女性祭司王が祭司王たる所以はそのシャーマン性にあります。つまり神と繋がれる存在であったからこそ大きな権力を持つ女神と崇められたのです。
卑弥呼はその典型ですね。そしておそらく豊玉姫にも同じくらいのシャーマン性があったのだと思います。ゆえに卑弥呼と同一視されるのだろうと。

古来より、男性と比べて感受性が強い女性は、霊的な力を持つと考えられていました。現代においてもそれは同様で、東北のイタコ、沖縄のノロ、南西諸島のユタ等すべて女性ですね。女性とはその身に生命を宿せる存在です。その点でも、男性よりも神に近い存在と言えるのではないでしょうか?

「神のお告げ」が国の行く末を決める古代において、シャーマンという存在が最高権力を持っていたことは容易に想像できます。そして豊玉姫の神を降ろす能力とは非常に優れたものだったと推測できます。初代天皇の祖母とされる女神ですから、この島でもトップレベルの女性シャーマンだったはず。ちなみに妹は神武天皇の母、玉依姫です。その血筋はこの島の王の系譜の本流です。

安曇氏の系譜を遡っていくと安曇磯良を経由し、やがては豊玉姫に行き着きますから、安曇氏はもともとこの島のシャーマンの系譜を引き継ぐ氏族であったと思われます。

さて、そんなシャーマンという存在ですが古代の遺物にその痕跡を残しています。
弥生時代、2000年ほど前の九州ではさまざまな線刻画が土器や木の板、青銅器などに描かれました。その一部にシャーマンをモデルにしたものが残っています。

豊作を祈願するシャーマン 福岡市博物館

両手をあげている人物の胸の辺りを注目してください。
何か動物が書かれています。
次に見ていただきたいのがこれは奈良県にある別の博物館ですが、絵画土器から復元された弥生時代のシャーマンフィギュアが展示されています。

唐古・鍵考古学ミュージアム『鳥装のシャーマン』 ブログ 世界の街角より引用

胸におもいっきり鹿が描かれています。そして両手に掲げているのはもちろん鹿の角でしょう。僕はこのフィギュア、そのまま安曇族なのではないかと想像してます。
志賀海神社の鹿、鹿島神宮の鹿、春日大社の鹿。それらすべては、このシャーマンの胸に描かれた鹿からきているのではないでしょうか?
鳥の羽を身にまとい、両手に掲げられるのは鹿の角。神を降ろす存在にとって、
鳥と鹿という動物がいかに重要だったのかがわかります。

さて、鹿を巡る冒険はいよいよ佳境に入ってまいりました。

シャーマンが重要視するこの鹿は、安曇氏とともに中国からやって来たのでしょうか?しかし僕は安曇氏はもっと西から来ていると書きました。
その考察の根拠が中東の地、イスラエルにあります。

古代イスラエルには失われた10支族という伝承が存在します。
元々は12支族だったのですが紀元前922年に分裂し、北と南で10支族と2支族に別れます。やがて北イスラエル王国は紀元前722年に滅亡し、北にいた10支族の行方がその後の歴史から消えていくという話です。
一般的な解釈では南にいたユダ族とベニヤミン族が現代のユダヤ民族の祖とされていて、残りの10支族の行方が現在までわかっていないのです。
そしてこれら12支族はそれぞれ紋章を持っています。

右上のナフタリ族に注目してください。鹿に見えませんか?僕はこれを見た時、安曇氏と鹿島神宮を思い出しました。
そしてこのナフタリ族が日本に来たことを裏付けるような遺物が今度は淡路島から見つかります。

淡路島はユダヤ遺跡があることで有名です。1934年、淡路島洲本で四州園という旅館を経営していた森重吉という人物が敷地内で遺跡を掘り当てます。

この遺跡の発見を契機に、その後も何度か調査が進められました。
そしてだいぶ経った1996年、その遺跡のある菰江海岸からふたつの指輪が発見されます。

上の指輪は六芒星、下の指輪は鹿が彫られています。鹿はどう見てもナフタリ族の紋章でしょう。いつ頃のものかはわかりませんが、僕は北イスラエル王国滅亡後にこの島にやってきたユダヤ人の残したものだと期待しています。そしてナフタリ族の痕跡が淡路島から見つかるということは、日本のその他の地域で発見されてもなんら不思議ではありません。人は必ず移動しますし、この島で生活したとすれば、子孫は芋づる式に増えていきます。
日本各地に残る鹿の信仰は、このユダヤの失われた10支族、ナフタリ族が残したものかもしれません。

僕の出身地の茨城は鹿島神宮にいる鹿が、はるか昔にイスラエルからやってきたナフタリ族の鹿ならば、よくもまあ遠路はるばる来たもんだと、鹿せんべいでもあげたくなります。

というわけで今回、君が代に歌われる安曇磯良を調べていたら、イスラエルの失われた10支族まで話が転がっていきました。
いやあ、古代史ってほんとにおもしろいもんですね。

今まで様々な西の氏族を取り上げてきましたが、その源流を辿っていくとどうしてもイスラエルやエジプトに繋がります。やっぱりみんな、太陽を目指してこの島にやって来たのでしょうか?それともこの島が故郷で、西の果てから長大な時間をかけて、里帰りの旅に出たのでしょうか?

さて、次に書く話はいったいどこへつながっていくのでしょう。

エントロピー増大の法則というけれど、
そんな法則ができるはるか前、
古代から人の動きはせわしなく、
その乱雑さは僕たちの凝り固まった観念を、
いとも簡単に壊してくれます。

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