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青森で見つかる「日本中央」 田村麻呂が刻んだヒノモトマナカを巡る旅

突然ですが、みなさんは日本の始まりをご存知ですか?
一般的な解釈では神武天皇が奈良に都を開き、即位した時からとされています。
今から約2600年前ですね。
しかし日本神話では、他にも象徴的な始まりの時が描かれます。
天孫ニニギが高天原から九州高千穂に降り立った「天孫降臨」も始まりと言えますし、いや、まず何をおいてもイザナギ・イザナミの国産み神話を挙げないわけにはいきません。この二神がオノゴロ島に居を構え、淡路島、四国と順に島々を産みだしていくところから日本という国土が誕生するのですからね。

こうして神話におけるこの国の始まりを並べてみましたが、いやあ、東国は出て来ません。みんな西の話です。僕は昔から古事記・日本書紀を読むたびに「じゃあ、その頃の東国は?」といつも疑問に思っていました。それで他の古史古伝や風土記に興味が流れていくわけですね。

僕は記紀を「西の歴史書」と捉えています。神武から始まる「西の歴史」を綴った本だと。
けれどもその裏に隠された「東の歴史」というものも、当然存在するはずで。
僕はその「東の歴史」を知りたくて、古代史を調べるようになったのです。

さて、今回は青森で発見されたある石碑の話です。

1949年青森県東北町で石碑が発見されました。これはもともと谷底に落ちていた巨石なのですが、掘り起こしてみると石の表面に文字が刻まれていたのです。

単身赴任みちのく日記より引用

ご覧の通り、「日本中央」と書かれています。青森という本州最北端の地で「日本中央」とはこれいかに?という感じですが、この石碑についていわれが残っているのです。
鎌倉時代に藤原顕昭という人物により編纂された「袖中抄」という書物があります。和歌について書かれた本です。この中に「つぼのいしぶみ」の伝承というものが残されています。
藤原顕昭によれば、平安時代の征夷大将軍である坂上田村麻呂が東夷征伐の際、
みちのくの地で大きな石の表面に矢尻で日本中央と書き残した。
それを「つぼのいしぶみ」というそうです。

鎌倉時代の和歌の本に記されたこの「つぼのいしぶみ」。当然多くの歌人が作品のテーマに取り上げました。たくさんの和歌でうたわれたため有名な石となりましたが、その所在は依然、不明なままでした。
そして長らく所在不明であった「つぼのいしぶみ」が近代になり、1949年に青森で発見されたというわけです。
しかしこの石碑については発見当時から真贋論争が巻き起こっており、これが「つぼのいしぶみ」であるという、その真相は未だ決着がついておりません。
この記事でも石碑の信憑性についてこれ以上深追いするつもりはありません。
僕がみなさんにお伝えしたいのは、石碑自体の真贋ではなく、その伝承のほうです。

藤原顕昭によれば、平安時代の征夷大将軍である坂上田村麻呂が東夷征伐の際、
みちのくの地で大きな石の表面に矢尻で日本中央と書き残した。

坂上田村麻呂はなぜ、みちのくの奥地で日本中央と書き残したのでしょう?
この伝承から推測できることは、田村麻呂は当時の青森の地を日本と認識していたということです。

青森が日本?この謎について今回の記事で迫っていきたいと思います。

青森の古代史といえばその歴史は縄文時代にまで遡ります。
三内丸山遺跡が有名ですね。

三内丸山遺跡 nippon.comより引用

今から約6000年〜約4000年前、縄文時代の大規模集落跡地です。
1992年から始まった発掘調査でその全貌が明らかになりました。
2021年には世界遺産にも登録され、その存在は世界に知られることになりました。
画像にある復元された物見やぐらは高さ14.7mもあり、佐賀の吉野ヶ里遺跡のやぐらを上回ります。詳しい用途はわかっていませんが、おそらく祭祀かなにかで使われた建物でしょう。またこの物見やぐらは測量の技術が当時すでにあったことを示し、なおかつ大規模な建造物を建てる際に大勢の人間に指示を出せる指導者の存在がいたことを現に証明しています。
これだけの遺跡ですから、建造には大勢の人間が関わったと思われます。
特定の技術や文化を持った集団、さらにはその集団を指導する王族の存在が窺い知れます。
この遺跡からは他にもたくさんの竪穴建物跡や掘立柱建物跡、盛土、大人や子供の墓などのほか、多量の土器や石器、貴重な木製品、骨角製品などが出土されていて、その文化水準の高さは縄文文明という新たな文明を世界史に刻みつけました。

僕が古事記や日本書紀を読んでいて感じる最大の疑問は、
この三内丸山遺跡を築いた王族は、その後どこへ行ったのか?ということです。
今から約4000年前にこれだけの遺跡を残せる民族です。その後の歴史に登場しないはずがありません。
しかし記紀には何も書かれていません。ここに僕は歴史の断絶を感じるのです。

冒頭で書きましたがイザナギ・イザナミが最初に産み出すのは淡路島です。そして天孫ニニギが降臨したのは九州高千穂です。神武が東征を開始するのは日向(宮崎)からです。日本の始まりに東国は出て来ません。
正史では西から始まっているのに、本州の北端である青森から約4000年前の遺跡が発見される。
この矛盾に僕は納得ができませんでした。
現代ではこの島の至る所に縄文遺跡が確認されています。
また青森には三内丸山だけでなく、現在確認される最古級の縄文土器が大平山元遺跡から発掘されています。約15000年前の土器片です。
そんな縄文の歴史をすっとばして急に高千穂に天孫が降り立ちましたじゃ
この島の歴史が浅すぎやしませんか?
青森の縄文文化がどのような遍歴を辿り各地に広がっていったのか。
その歴史を記紀は教えてくれません。

断絶された歴史をつなげたい。そんな願いから古代史を調べている人を僕はたくさん知っています。かくいう僕もそのひとりです。
途切れた記憶をまた繋ぎ合わせるために、僕は古代を調べます。

それでは今回の記事、核心に迫っていきます。
キーワードは坂上田村麻呂が記した日本中央。
そして神武が東征を開始した日向という地名にあります。

古代中国の書物に「旧唐書」という歴史書があります。945年に完成したこの書物ですが、この中に日本のことが書かれています。
東夷という項目の中に「倭国伝」と「日本伝」の表記が見られます。
つまり中国の唐はこの日本という島にふたつ国があると記述しているのです。
唐の認識では「倭国とはいにしえの倭奴国である」とし、「日本国は倭国の別種であり、その国は日の昇る方にあるので、日本という名前をつけている」としています。
日の昇る方とは、つまりは東国の地になりますね。この記述から読み取れることは、日本は古代のある時期まで、ふたつの国に別れていたということです。

さて、これでなぜ坂上田村麻呂が青森で日本中央と記したのか、その謎が解けて来たように思います。そして神武が東征を開始した日向という地名ですが、これは「日に向かう」と書きます。それはつまり日の昇る国を目指すということではないでしょうか?神武本人は東征の途中、奈良の橿原で崩御されていますが、のちの大和政権はヤマトタケルや坂上田村麻呂を派遣しさらに東へと東征を続けます。やがて平安時代、坂上田村麻呂率いる蝦夷征討軍がみちのくの地で「つぼのいしぶみ」を残す伝承と繋がってくるのです。

三内丸山から途絶えてしまった東の歴史。それは「旧唐書」に描かれる「日本国」に引き継がれていたのではないでしょうか。
以上の内容から察するに、僕は古代、この島にふたつの国が存在したと思っています。そしてそれらの国の歴史はそれぞれ「西の歴史」と「東の歴史」に分かれるのだろうと。
現在、通説とされるのは「西の歴史」のほうですね。
しかし僕がこの記事で伝えたかったのはその通説の裏側にある「東の歴史」の痕跡です。それは縄文の歴史といってもいいでしょう。約10000年続いた争いのない時代。その記憶の断片を少しでもみなさんに思い出して欲しかったのです。

それでは最後に天皇陛下の即位式、大嘗祭のお話でこの記事を締めくくりたいと思います。

大嘗祭とは天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀です。即位式であるため天皇にとっても一世一度となるとても重要な皇室行事です。
この大嘗祭の中心的な儀式を執り行うために造営される黒木造りの建物を大嘗宮といいます。即位に伴う一連の行事のクライマックスはこの中で遂行されます。

大嘗宮とは大小30あまりの建物で構成され、中でも主要な建物とされるのは中央の左右に配置されている「悠紀殿」と「主基殿」です。

天皇は即位後にこの「悠紀殿」と「主基殿」にそれぞれ神饌(神に献上する食事)をお供えし、自らもそれを食す「共食の儀」を行います。これにより天皇は皇祖神の霊徳を自身の身に受けその身に宿す、まさに神とつながる極めて厳かな儀式です。
この儀式で不可解なのは、天皇はその「共食の儀」という同じ行為を「悠紀殿」と「主基殿」で場所を変え、2度繰り返すことにあります。

これは一体何を意味しているのでしょう?

通説ではアマテラスが天皇の皇祖神とされていますから、「共食の儀」はそのアマテラスに向けた1度だけで済むはずです。しかし天皇は「悠紀殿」と「主基殿」で2回に分けます。
まるで別の神格を持った2柱の神様に、それぞれ挨拶しているかのようです。
そもそもこの「悠紀」と「主基」は何を意味しているのか?

東京神社庁のホームページによるとこの「悠紀」と「主基」はどうやら地方名を表しているようです。
現在では新潟、長野、静岡の線で、国内を東西に二分して、その三県を含む東側を「悠紀の地方」、それより西側を「主基の地方」と定めるとあります。

千葉県立旭農業高校ホームページより引用

ちょうどフォオサマグナのあたりで「悠紀地方」と「主基地方」に分かれているのが非常に興味深いですが、今回は話が逸れるのでおいときます。

とにかく大嘗祭の「共食の儀」が執り行われる「悠紀殿」と「主基殿」は日本の東西を表していると言えそうです。そして天皇は同じ儀式を「悠紀殿」と「主基殿」で繰り返す。
なぜ2度繰り返すのか。
それは「悠紀殿」と「主基殿」それぞれに、全く別の神様がいるからではないでしょうか?
つまりはこういうことです。古代、日本の東西にはそれぞれ別の神話体系があったと考えられないでしょうか?

東京神社庁のホームページにはさらに意味深なことが書かれています。
「悠紀」とは「最も神聖で清浄である」、「主基」とは「次」という意味があります。
上の地図に当てはめてみましょう。「悠紀地方」とは東国で、「主基地方」とは西国です。東を「最も神聖で清浄である」とし、西は「次」としています。

いかがでしたでしょう。坂上田村麻呂が残した日本中央の石碑から始まった、
遺伝子の記憶を巡る今回の旅。

記紀が隠した「東の歴史」。
神武は「日向」から東を目指し、
その向かう先にある日が昇る国とは、
かつての三内丸山が栄えたような、
悠紀国と呼ばれる東の地だったのではないでしょうか。

建国神話に東国が出てこないとお嘆きのみなさん。
東国にはそれ以上に深い縄文の歴史がつまっているのかもしれません。

そういえば、大事なことを書き忘れました。
「悠紀殿」が東国で、「主基殿」が西国をあらわすとするならば、
「西の歴史」を象徴する「主基殿」で天皇が共食する相手とはもちろんアマテラスになるわけで。
ならば「悠紀殿」で共食する相手とは一体どの神様になるのでしょう?

いやあ、遺伝子の記憶を巡る旅は果てしなく、目的地は遥か彼方となりそうです。

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