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国歌 「君が代」 その歌詞に続きがあるのをご存知ですか?

日本の国歌といえば「君が代」ですね。
僕が子供の頃は学校行事のたびに歌った記憶がありますが、
今はどうなんでしょう?
聖徳太子が教科書から消える時代ですから、歌ってないのかもしれません。
今「君が代」を聞くとすれば、サッカーの代表戦くらいですかね。
サッカースタジアムの青々とした芝生を眺めながら聞く「君が代」も
それはそれで風情があっていいもんです。
JFAと八咫烏のつながりも興味深い話ですが、それはまた別の機会に。

今回は九州にいた古代海洋民族のお話です。

日本の古代氏族に安曇氏という氏族がいます。九州発祥とされる一族です。
古代の海洋民族であった彼らはその後日本各地に散らばり、長野県安曇野市、石川県羽咋郡志賀町、滋賀県安曇川、愛知県渥美半島など、「しか」「あつみ」とつく地名にその痕跡を残しています。

さて、そんな安曇氏が祭祀を務める神社として、福岡県の志賀海神社があります。ここは安曇氏の氏神で、現在綿津見三神を祀っていますが、以前は安曇磯良という神を祀っていました。この神は安曇氏の祖と言われる人物で、記紀には登場しませんが、その特徴的な容姿、残されている伝承から、なにかと話題の多い神様です。
以下、神楽で演じられる安曇磯良です。

Ban'ya Archivesより引用

異様な姿ですね。この神が神楽などで表現される際は必ず顔を白い布で隠します。
その理由は海人の神なので、顔に牡蠣が付着して醜いからだとか、
あるいはまぶしすぎてその顔を直視することができないからだとか、
両極端な解釈が存在します。
これは古代史あるあるですが、両極端な意見が存在する神というのはたいがい重要な神である場合がほとんどです。スサノオがいい例です。
それはある時点まで巨大な権力を持つ神は、政権が変わった時にその巨大な権力が邪魔になるからです。
のちの歴史で新政権側の手によって、過去の伝承を貶められます。

なぜ今回安曇磯良をとりあげたかと言うと、それは日本の国歌である君が代が、
実はこの安曇磯良を讃えるために歌われた、神楽歌が元になっているからです。

君が代とはもともと志賀海神社の神事で演奏されていた神楽歌が原型になっています。その神楽が安曇の君である安曇磯良を讃える内容となっているんですね。

まず、現在歌われている「君が代」の歌詞を見てみましょう。

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

みなさんお馴染みの歌詞ですね。
もちろん安曇磯良はでてきません。
しかしこの歌詞をもとに志賀海神社の周辺を見てみましょう。

志賀島のすぐ近くに糸島市という場所があります。
ここに細石(さざれいし)神社があります。
祭神は磐長姫と木花開耶姫の姉妹ですね。
また同じ糸島市に若宮神社があるのですが、ここの祭神がおもしろい。
その名も苔牟須売(コケムスメ)です。僕もいろいろな神を調べてきましたが、
おそらくこのコケムスメは糸島市の若宮神社にしかいないと思います。
初めて聞く神名でした。
若宮神社ではコケムスメと一緒に木花開耶姫が祀られているので、
おそらくコケムスメとは磐長姫のことだろうと思いますが、
いずれにせよ、非常に興味深い神様です。

君が代に関連するさざれ石やコケムスメという痕跡が残る糸島市。
ここは古代、伊都国があった場所とされています。伊都国とはあの魏志倭人伝にも出てくる倭国の中の一国です。魏志倭人伝の書かれた3世紀、日本は小国が乱立していてその中の一国がこの伊都国なのです。

話がそれました。
とにかく安曇磯良の本拠地である志賀島周辺に君が代の痕跡が残っています。
冒頭でこの安曇磯良を讃えた歌が君が代の元になっているとお伝えしました。
志賀海神社では毎年春と秋に山誉め祭という神事を執り行います。そこで歌われる神楽が君が代の原型になっているとされています。
それでは志賀海神社に伝わる神楽「山誉め祭 神楽歌」の歌詞を見てみましょう。

君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで
あれはや あれこそは我君のみふねかや うつろうがせ身骸に命 千歳という
花こそ 咲いたる 沖の御津の汐早にはえたらむ釣尾にくわざらむ 
鯛は沖のむれんだいほや

志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ
香椎路に向いたるあの吹上の浜
千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ
たが御船ありけるよ
あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う
御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか
磯良が崎に 鯛釣るおきな

磯良が崎に 鯛釣るおきな
最後の歌詞が心にグッときますね。

冒頭部分は現在歌われている「君が代」と全く同じです。
そして後半部分に志賀の浜、阿曇の君、磯良という歌詞が出てきます。
なぜこの志賀海神社に伝わる神楽がのちに国歌として採用されたかというと、
この神楽歌を旅芸人が広め、それが古今和歌集に収められ、
今度はそれが薩摩琵琶の「蓬莱山」という曲になり、
その中の君が代の歌詞の部分が国歌に採用される。
こういう流れだそうです。

志賀海神社の神楽で歌われている安曇磯良は古代の九州において巨大な勢力を
誇っていたと思います。
記紀に出てこないにも関わらず、さまざまな伝承が残っているのがその証拠です。

福岡県久留米市に高良大社という神社があります。
ここの御祭神は高良玉垂といいます。この神も記紀には登場しない、
非常に興味深い神なのですが、今回は追いません。

この高良大社に残る「高良玉垂宮神秘書」に磯良のことがこう書かれています。
アントンイソラ(安曇磯良)と申すは筑前国にては志賀、
常陸国にては鹿島大明神、大和国にて春日大明神と申すなり。
一躯分身。同体異名の御ことなり。

衝撃の内容です。タケミカヅチが安曇磯良。

僕は生まれが東国三社のお膝元ですから、この内容を知った時は驚きました。
志賀島とは鹿の島?だから鹿島には鹿がいる?そういえば、春日にも鹿がいた。
安曇磯良、東国に来ています。
古代の九州で活躍した海洋民族は、黒潮に乗ってはるばる関東までその名を轟かせています。
ではなぜ、安曇磯良を讃える「君が代」が、国歌に採用されたのか?
日本とは神武天皇から始まった国なのか?
古代史はこの国の「深さ」を教えてくれます。

阿波と東国がようやくひと段落したと思ったら、今度は九州と東国になりそうです。

正史から消された九州は筑前に御座す
「安曇の君」
掘っていきたいと思います。



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