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パクチーの日本史(香菜的日本发家史)

パクチーハウス東京(世田谷区経堂)時代のお客さんがパクチー銀行(安房郡鋸南町)を訪問。東京湾フェリーで一緒に帰ることになり、激混みの船上で中国人の青年と相席することになった。乾杯から始まったコミュニケーションの中で、僕たちとパクチーについて伝える過程で、中国語で書かれたこんな記事に出会った。

2022年5月に発表されたもののようだ。僕のこと、僕の活動についても書かれている。印象に残ったところ、大事なところを引用・翻訳(半自動)しよう。

香菜在日本从画龙点睛的配菜、佐料一跃而成主角,并做了“时尚、年轻”的代名词。

日本では、パクチーは添え物から主役になり、「おしゃれと若さ」の代名詞になっている。

NHK的《今天的料理》是配合电视美食栏目发行的期刊,二〇一六年七月刊的特集为“更贴近身边的香菜食谱”,从这一期开始,香菜从中华料理中的资深配角,变成了日本新式料理中弹眼落睛的主角,香菜的用语也从“シャンツァイ”变成了“パクチー”。

テレビの料理番組と連動して発行される定期刊行物『NHKきょうの料理』2016年7月号では、「パクチーレシピ もっと身近に」という特集を組み、コリアンダーが中国料理のベテラン脇役から新日本料理の主役になり、コリアンダーという言葉が「シャンツァイ」から「パクチー」へと変化しています。

如果说,印度、泰国和越南料理在日本的风靡让人们接受了香菜的存在,世界上第一家香菜料理专门店的开设则是推动香菜热潮的关键因素。二〇〇七年,佐谷恭在东京经堂开设了“Paxi House东京”(香菜屋东京)。他高呼着让香菜从佐料变成主角。最初周围的人都批评他太过愚蠢和狂妄。

日本でのインド料理、タイ料理、ベトナム料理の人気がパクチーの受容につながったとすれば、世界初のパクチー料理専門店の開業は、パクチーブームを牽引する重要な要因であったといえる。 2007年、佐谷恭は東京・経堂に「パクチーハウス東京」をオープンした。 パクチーを添え物から主役にすることを叫んでいました。 当初は、周囲から「あまりに愚かで傲慢だ」と批判された。

作为世界首家店铺,各种采访纷至沓来,知名度也水涨船高。开店一个月后,为了品尝神秘香菜料理的真味,就有从爱媛来到东京的客人。随后,墨西哥、意大利、澳大利亚等世界各地的“香菜粉”们也开始聚集到这家店里。

世界初の店舗して、取材が来たり、人気が出たり。 オープンから1ヵ月後には、この不思議なパクチー料理の本当の味を求めて、愛媛から東京までお客さまがいらっしゃいました。 その後、メキシコ、イタリア、オーストラリアなど世界各国から「パクチーファン」が押し寄せるようになった。

佐谷恭一九七五年出生于神奈川县,从京都大学毕业后曾在富士通工作,后赴英国留学。他热衷于旅行,他生活的时代恰是日本人大规模走出国门周游世界的时代。佐谷恭二十几岁的时候在柬埔寨金边和香菜火锅料理邂逅,整束食用的方式给他留下了强烈的印象,随后又在旅行的过程中不断“再发现”了香菜。二〇〇五年,佐谷恭发起并成立了香菜的“同好会”,日语名称为“日本香菜狂会”。他和朋友们一起在各种各样的饮食店里点香菜、开香菜派对,在网络上进行电子期刊的推送,登载香菜在营养学和美容瘦身方面的功效,公开了各种香菜料理的菜谱。年轻人尤其是年轻女性敏锐地注意到了香菜的好处,并成为消费香菜料理的主力军。到了二十一世纪一十年代中期,各种专门店也如雨后春笋般涌现出来。

1975年、神奈川県に生まれた佐谷恭は、京都大学を卒業後、富士通に勤務し、英国に留学した。 彼は、日本人が大規模に世界を旅していた時代に生きていた、熱心な旅行者だった。 20代の頃、カンボジアのプノンペンでパクチーを大量に使った鍋料理に出会い、丸ごと食べられることに強い感銘を受け、その後も旅の中でその魅力を「再発見」してきた。 2005年、佐谷恭は、日本語で「日本パクチー狂会」と呼ばれるパクチーの「親睦会」を発足させ、設立した。 友人たちとさまざまなレストランでパクチー注文を試み、パクチーパーティーを開き、パクチーの栄養や美容効果を紹介するオンライン・メールマガジンを推進し、さまざまなパクチー料理のレシピを公開しています。 若者、特に若い女性はパクチーの効能を強く意識し、パクチー料理の主な消費者となった。 2010年代半ば(2015年ごろ)になると、さまざまな専門店が誕生した。

其实在佐谷恭开设第一家香菜料理专门店之前,他还做了一件破天荒的事。日本东京的保田站曾经开设有一家银行,就在闲逛的途中,佐谷恭萌生了在这个银行旧址上开“香菜银行”的念头。

実は、佐谷恭はパクチー料理の専門店をオープンする前に、もう一つ常識はずれのことをしていた。 東京の保田駅にはかつて銀行があり、佐谷恭はその跡地に「パクチー銀行」を開こうと、ぶらぶら歩いているうちに思いついたのだ。

パクチーハウス東京を開く前に「パクチー銀行」のコンセプトを作ったのは事実だが、そのときにリアル店舗を作ったわけではないんだけどね・・・。ぶらぶら歩いているうちに・・・w

按照他自己的描述,从金钱与快乐并不对等的关系中,他意识到要开一家能给人们带来笑容的“种子银行”。在热衷于香菜的道路上,他通过学习掌握了固定种和F1种(指通过杂交培育的子一代的种子,因为集合了双亲的优势在农业上有很广泛的运用,但有些品种很容易退化)的问题,意识到小规模的“维系种子”的必要性。香菜银行作为香菜种子的融资银行,不需要担保,不需要信用,也不需要履行偿还义务。

本人曰く、お金と幸せの関係はイコールではないことに気づき、人々を笑顔にする「種まき銀行」を開きたいと思ったのだそうです。 パクチーに情熱を注ぐ中で、固定種やF1種子(交配によって育成された子孫世代の種子で、両親の長所を兼ね備えているため農業に広く利用されているが、品種によっては劣化しやすい)の問題点を学び、小規模な「維持種」の必要性に気付いた。 パクチー銀行は、パクチーの種子の資金調達のための銀行として、保証、信用、返済の義務を負わない。

パクチー種を得るための資金調達ではなくて、パクチーの種自体を融資しているんですよ!w

佐谷恭坦言,设立香菜银行是受到二〇〇六年诺贝尔和平奖获奖的格莱珉银行(Grameen Bank)的启发。

佐谷恭は、パクチー銀行の設立は、2006年にノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行からヒントを得たと認めている。

二〇〇七年一月一日,佐谷恭创建香菜银行并就任行长。在此之前,很多从佐谷恭那里得到香菜种子的人并不栽培。在设立银行之后,获得种子的人们虽然无须背负返还的义务,但他们还是会有一种特殊的使命感。他们向佐谷报告了栽培的情况和收获后做的料理,并通过拍照、发朋友圈的方式上传网络,无形中通过行动支持了香菜银行和香菜的普及。

2007年1月1日、佐谷恭がパクチー銀行を設立し、頭取に就任した。 それ以前は、佐谷恭からパクチーの種をもらった人の多くが栽培していなかった。 銀行設立後、種をもらった人は返す義務はないのですが、それでも特別な使命感を持っていました。 栽培の様子や収穫後の料理の様子を佐谷に報告し、写真を撮ってインターネットにアップしたり、友人に投稿したりと、実質的に自分たちの行動でパクチー銀行とパクチーの普及を支えているのです。

香菜银行设置了ATM机,打上了“播下多余的种子”的按钮,只需在剩余种子的情况下返还香菜就可以了。通过行动支持香菜银行和香菜普及活动的人急剧增加,并最终让佐谷恭有了也开香菜料理专卖店的想法。

パクチー銀行は、「余分な種をまく」ボタンが付いたATM機を設置し、パクチーが残っていれば返すだけ。 パクチー銀行を支援する人たちや、彼らの行動によってパクチーの普及が一気に進み、やがて佐谷恭はパクチーのレストランを開くというアイデアも得た。

ATMのダジャレで「(A)余った(T)種を(M)まこう」とアルファベットを並べただけなんですが、機械を設置したことになったらしいw

与那国岛一直以来就有食用香菜沙拉的习惯,拌上酱油食用是标准操作。那里的居民认为,没有吃过香菜,冬天就不会来。每年的十二月到次年三月,香菜被固定在家庭饮食和居酒屋的菜单上,二〇一七年九月,还制定了将每年十二月的第二个星期日定为“香菜日”的条例。

与那国島では古くからパクチーサラダを食べる習慣があり、醤油をつけて食べるのが定番です。 この地の住民は、パクチーを食べないと冬が来ないと信じている。 毎年12月から3月にかけて、家庭や居酒屋のメニューにパクチーが固定されており、2017年9月には毎年12月の第2日曜日が「クシティの日」に制定されました。

与那国ではパクチーのことをクシティと呼ぶ。与那国町役場の人がパクチーハウス東京に来て、クシティの時期(毎年12月から3月ぐらい)にイベントをしたいというので、クシティの日をつくることを提案した。我ながら強引で秀逸な案で、その日付(12月第二日曜日だっけ?)の根拠もつくったはずだが、なんでその日にしたのかは忘れてしまったw 思い出したいw

与那国町は、これを条例で定めた。

二〇一八年,佐谷恭关闭了世界上的第一家香菜料理专卖店,因为他发现有更多可以做的事情。他是“香菜热”的幕后推手,香菜也是他的幸运物。现在的佐谷恭,除了继续经营香菜银行,把更多的经历花费在著书和收费宣讲上。他出版了不少以香菜为主题的书籍,从最初的菜谱书、人生哲学论发展到成功学。其中的一本畅销书名为《把“不可能”变成热潮的工作方法》(「ありえない」をブームにするつながりの仕事術),结合他与香菜的故事,讲述工作方法论。佐谷已经华丽转身成了传授创业经验的企业家。

2018年、世界初のパクチーレストランを閉店した佐谷恭は、もっとできることがあることに気づいたからだ。 パクチーブームの立役者であり、パクチーは彼の幸運のお守りなのだ。 現在、佐谷恭やはパクチー銀行の経営を続けながら、本の執筆や有料の講演会などに時間を割いている。 パクチーをテーマにしたオリジナルレシピ本や人生哲学的な論考から成功法則まで、数多くの本を出版している。 ベストセラーのひとつに『「ありえない」をブームにするつながりの仕事術』という本があるが、これは彼の話とパクチーの話を組み合わせて仕事の方法論を語ったものである。 佐谷恭は、起業家の経験を教える起業家へと見事な変身を遂げました。

「見事な変身を遂げた」らしいw
確かに、パクチーは僕の「幸運のお守り」です。

そして、講演依頼お待ちしています

上自农林水产省,下自酱油生产商,都有自己的饮食研究部门,主要目的是制定推广日本饮食文化和饮食产业全球化的对策。香菜的崛起,让中国、泰国和越南的香菜热爱者们有一种不可思议的感觉。日本又一次成功示范了吸收之后的反输出。

農林水産省から醤油メーカーに至るまで、日本の食文化や食産業のグローバル化を推進するための施策開発を主な目的とした食品研究部門を有している。 パクチーの台頭は、中国、タイ、ベトナムのパクチー愛好家に驚きを与えている。 日本はまたしても、吸収に続く逆輸出を成功させたのである。

パクチーは日本に渡来してから1000年以上経っても普及していなかった。マイナー野菜であり、日本食できちんと使われていなかった。僕が旅した国々はほぼどこでも、パクチーを何らかの形で使っていた。ほとんどパクチーが無視されている日本(と韓国)を、僕は「パクチー後進国」として指定した。しかし、日本の食文化の柔軟性や、世界に名だたるシェフが日本から多く輩出されていることから、「パクチー料理」(僕が勝手につくったジャンルだったがw)を確立させることで、「パクチー後進国」だった日本からの発信で「パクチー料理発祥の地」に日本がなりうると勝手に主張した。ぐるなび総研の「今年の一皿」選出(2016年12月)とこの記事は、僕の冗談というか妄想というか妄言が、認められたことを示している。

日本はかつて「パクチー後進国」でしたが、いまや「パクチー料理発祥の地」なんです!(笑)

为了让更多的人能接受香菜,佐谷恭在开设他的香菜专卖店时着实花了一番功夫。这家店铺的名字是他自己创造的新词“Paxi”, 把“pax”这个拉丁语的和平和“i”这个人的象形文字结合起来,隐喻了推广香菜与世界和平的关系,而“Paxi”的发音与“パクチー”(phakchi)又很接近。店铺的口号是“No Paxi,No Life”。

佐谷恭は、パクチーをより多くの人に知ってもらうために、自らパクチーの専門店をオープンさせるなど、工夫を凝らしている。 店名は、ラテン語で平和を意味する「pax」と、人間の「i」のピクトグラムを組み合わせた、彼自身の新しい造語「Paxi」で、以下のような隠喩としています。 「Paxi」は「パクチー」(phakchi)と同じように発音します。 お店のスローガンは「No Paxi, No Life」。

「i」は「旅人」を表し、パクチー(paxi)は「旅と平和」の象徴です、と創業当初から僕は訴えています。「旅と平和」は2003年に英国ブラッドフォード大学大学院(平和学)に行く直前からの僕の人生のテーマで、2007年に創業した会社名にもしています。

二〇一八年的夏天,日本各地遭受了暴雨灾害天气。为了激励大家,冈山在当地的神宫举行了用“希望的香菜”来祈祷复兴的活动。很多人士在线上参加,NHK进行了直播,也因此筹得了不少善款。香菜俨然成了和平与希望的代言。

2018年夏、日本は集中豪雨に見舞われた。 岡山では、人々を鼓舞するために、地元の神社で「希望のパクチー」で復興を祈願するイベントを開催しました。 ネットで多くの人が参加し、NHKで生中継され、多くの募金が集まりました。 パクチーは平和と希望の代弁者になったのです。

早くからパクチーに目をつけた岡山では「岡パク」の名で特産品としているほか、パクチー奉納祭を行い、神社にパクチーを納めたりもしている。復興祈願祭にパクチーが絡むなんて、夢見てすらいなかったので嬉しい。そして、パクチーは「旅と平和」の象徴ですと僕は言いたいんだけど、「平和と希望の代弁者」・・・でもいいかw

虽然我不是一个喜爱香菜的人,但我从不质疑香菜热爱者们的真情实感,毕竟要假装喜欢香菜的可能性是很低的。二〇一八年六月,宇多田光在出道二十周年的纪念专辑中自己填词谱曲了一首《香菜之歌》,高调地官宣了她是一名“香菜粉”:

私はパクチー好きではありませんが、パクチー好きの信憑性を疑うことはありません。何しろ、パクチー好きのふりをするのはとても無理な話ですからね。 2018年6月、宇多田ヒカルが20周年記念アルバムに自作曲「パクチーの唄」を作詞・作曲した際、「パクチーファン」であることを正式に発表した。

宇多田ヒカルさんが「パクチーのうたを作ろうかな」という旨のツイートをしたのは2012年夏頃だったと思う。お休みされていてツイッターで久しぶりにコメントがあり話題となった。そのときに、僕の「パクチーのうた」を知る方々が、「すでにありますよ」的なリプライを返していたのが懐かしい。確認した限り、どれにも返事はなかったけれど。

僕が歌う「パクチーのうた」は、2007年11月に、パクチーハウス東京の開店記念として、日本パクチー狂会の会員の syung@ と ゆみパク 夫妻(当時未婚だったかも)が作詞・作曲した。


パクチー(P)コワーキング(C)ランニング(R)を愛する、PCR+ な旅人です。 鋸南(千葉県安房郡)と東京(主に世田谷と有楽町)を行き来しています。