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修論の研究で読んだものまとめ。#4

はじめに

修論提出まで1年切ったので急ぎめでいろいろやってかないと…という中でのまとめです。4つか5つ読み終わったらどんどん出す感じでいきます。

佐近田展康「メディア技術の亡霊たち」

(『名古屋学芸大学メディア造形学部研究紀要』第2巻、p.33-42所収)
 写真と録音の技術をテーマに、メディア技術と幽霊・亡霊的なものとの本質的結びつきについて論じたもの。前半はロラン・バルトが『明るい部屋』で論じた「写真の亡霊化作用」について、我々が疑わずして「写真を見ている」という地平を成立させることに写真機械・技術が関わる点を「手に負えない《機械》の亡霊化作用」(p.37)として一般化させつつ読み解く。後半はフォノグラフなどの音声メディアと「《機械》の亡霊化作用」について、ジャック・デリダのエクリチュール/書き言葉に対するパロール/話し言葉の優越への批判を参照しながら、「いまーここ」の関係や「現前」をキーワードに考察する。
 声はパロールのメディアであり、また「自分が自分の声を聞く」ことで主体が主体自らであること(主体の現前)を了解するならば、機械によって主体の声を対象化することは警戒されるべきことである(p.39参照)。ではテクノ・ミュージックで用いられるボコーダーやオートチューンはどんな存在といえようか?例えばバ美肉のVtuberが使用するようなボイスチェンジャーの場合、ボイチェンの声は美少女化した理想の主体の現前をもたらすといえるだろう。テクノロジーによる「現前の創造」(p.40)という面とボコーダーやテクノ的なものの関係性という切り口は、椹木野衣の論を含めて色々考えられる。


滝浪佑紀「Twiceの身振り――デジタルメディア時代におけるミュージックヴィデオ」

(『城西国際大学紀要』第27巻、p.1-16所収)
 音響身体論における「ライブ的な音楽とメディア化」の問題を考えるうえでMVに関する論文も見ておこうと思って読んだもの。
MVはナラティブよりも視覚的アトラクションに重点を置つつも、特にTWICEのそれについては、ジョルジョ・アガンベンやヴァルター・ベンヤミンを引用しながら、今日のデジタルなメディア性やメディアの中の人間性を展示する存在だと論じている。
 例えばフィリップ・オースランダーはロックを題材にしながら、ロック音楽がライブである状態とメディア化されたそれは相互依存的であると論じた。確かにロックに限らずバンドのMVは演奏してるシーンが多いような気もする。ただ音楽グループのMVは多種多様であり一般化して論じるのは困難で、もう少し個別的に考えられる必要がある。TWICEのような(ジャニーズ系のアイドルや坂道系も同様だろう)ダンスをメインとしたグループは、リップシンクを多用することもありパフォーマンスをするにあたってライブかそうでないかの違いは「音声」の段階では些細なことでしかない。しかし実際ライブに訪れるファンは音声がどうかよりも推しのダンスに着目しているわけであり、そういう点でも音楽ライブにおける視覚的な部分の強さは主張できるかも。またダンス系のグループである種「音声」を背景化したりするやり方は一般的で、その広まりについても音楽番組の登場や演出の多様化という背景が考えられる。


荒川徹「ミュージックビデオには何が表現されているのか――レンズ・オブジェクト・霊」

(『エクリヲ vol.11』p.22-31所収)
 MVを「音楽とオブジェクト」「風景と身体」をテーマに具体例を挙げつつ分析していくもの。中盤では「音楽のオブジェクト化」の例としてリリック・ビデオやケミカル・ブラザーズの『Star Guitar』が例示されている。特にリリック・ビデオは「音声という非オブジェクト的で流れ去るものに、レコードを再生する行為にも似た、物体的な手触りを加え」、「音楽とオブジェクトの接点を新たに構築する」(p.26-27参照)。
 それでいえば、最近ではリリック・ビデオと銘打たずともMV自体が一枚 or 複数の差分イラストの背景と、文字にされた歌詞をぐりぐり動かすことで構成されているものがよく見られる気もする(Kanaria『KING』、MAISONdes『トウキョウ・シャンディ・ランデヴ』とか…探せばたくさんある)。恐らく制作コストや納期etc.を考えた上でこれが一番ちょうどいい手段であると同時に、イラストを用いたシンプルな構成のMVにすることで「歌ってみた動画」等の二次創作を容易にする狙いもありそう。西村智弘「インターネット時代のミュージックビデオ――インタラクティブ・ミュージックビデオを中心に」などインターネットの文化がMVに与えた影響を論じるものは複数あるが、これも現在における典型例といえる。また「音楽をオブジェクト化する」というやり方によるMVは、歌詞の意味性を顧みる必要性がそれほどないテクノ・ミュージックやエレクトロニカと相性がいいだろう(コーネリアスetc.)し、ライブ会場のステージにあるスクリーンで流されることも多い。しかし本論では映像と音の同期の心地よさだけでなく、物体的な手触りという解釈を加えている点が興味深かった。

吉田雅史『なる身体になる――メシュガーMV論』

(『エクリヲ vol.11』p.116-134所収)
 スウェーデンのメタルバンド・メシュガーのMVを例示し、ジェントのような複雑なリズムの楽曲をMVで表現するための手法について論じたもの。
例えばヒップホップやメタルのMVは「リアリティ」の表現の必要性によってアーティストの身体の露出や歌詞のリップシンク、実際の演奏シーンが要請される(p.116-120参照)。そしてそのMVの中で登場する人間は演奏する・歌唱する身体に「なる」。メシュガーの楽曲は複雑なポリリズムで構成されているが、MVでリップシンクしたり、当てぶりであっても演奏する身体に「なる」ことが、その混沌に一種の秩序をもたらす。
 この「秩序をもたらす」ことをテクノ・ミュージックのライブ・パフォーマンスにおいても同様に考えてよいかは検討の余地ありだが、やはり当てぶりでさえも出音と動きの合致が起これば安定性(?)のようなものが出てくる、というのは重要な点。


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