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最近読んだもの。#6

番外編 キース・二―ガス「ポピュラー音楽、ポストメディア、プラットフォーム・ミュージシャン」

(2/18に行われた、ポストメディア東京会議2023・基調講演2 での内容を個人的にまとめました)
自分が学部2年生の終わりぐらいのとき、表象文化論の先生に「卒論のテーマとか何となく決まった?」と聞かれて「音楽研究で卒論書きたいです」と言ったんだけども、それで「音楽研究するならまずこれを読め」ということで渡されたのがキース・ニ―ガスの『ポピュラー音楽理論入門』。なので何となく思い入れがある研究者の方です。
前半はSpotifyやTencentといったプラットフォームは音楽家にどのような影響を与えているのか?といったプラットフォーム・スタディーズの内容。1960-70年代の過剰生産をしつつ残ったアーティストのみをプロデュースする「mud against the wall、壁に泥を投げて壁にくっついたやつだけプロデュースする」のアプローチが今日では拡大しており、またコンテンツをひたすら増やしたいプラットフォーム側との相互依存状態になっていることを指摘していた。
個人的に後半の「オリジナリティとは何か?」「ポスト・オリジナリティ」の話が興味深かった。例えばBTSの楽曲は常に複数人(平均して大体6人くらい)の作曲者によって制作されているし、ビヨンセの「Hold Up」は16人も作曲者がクレジットされている。今日のポピュラー音楽を考えるとき、作曲者と楽曲・楽曲の評価が一対一対応になるようなロマン主義的評価はもはや通用しない。そもそも「音楽」的なものの概念自体はさまざまなメディアが成立する何千年も前の時代から成立していることを忘れてはいけない。また
著作権と音楽家の収入を考えるうえでもクレジットの問題は欠かせない(例えば電気グルーヴの「Shangri-La」とシルベッティとか)。またVaporwaveやFuture Funkのようなサンプリングを考えると、ニ―ガスが指摘したように今日では「楽曲の来世」が重要になる。それは楽曲の文脈意外にも、TikTokで再び知名度を上げたり、ピコ太郎のように著名なアーティストにレコメンドされたり……やはり曲単体での評価やのし上がりは難しくなっているように思う。

大久保遼「舞台演出と映像技術――スクリーンの物質性と空間の編成」

(梅田拓也他編著『技術と文化のメディア論』p.131-150 所収)

コーチェラ・フェスティバルにおける映像技術と演出を題材に、特にPerfume/Rhizomatiksの舞台演出を取り上げている。前半ではステージ上のスクリーンを「舞台装置」と「移動体」の2つの側面から論じている。「移動体」の項では可動型スクリーンや、モーションキャプチャーによって制御され舞台上を移動するオブジェクトによる演出について書かれており、例えば舞台上を移動するオブジェクトはスクリーンとしても機能し、さらにスクリーンに映るパフォーマンスと実際にメンバーの身体が行うパフォーマンスが連動することで、映像・身体・装置は演出上では可変的かつ同じレベルに位置する存在になり、明確な区別ができない程になる(p.141-143)。
今日の音楽ライブの空間では映像を使っての演出は一般化している。「映像・身体・装置が可変的かつ同じレベルに位置する」ということは、リック・アルトマンの「腹話術」や増田聡のいうようなテクノ・ミュージックにおける楽器と身体の関係についての論を補強する材料になる。修論では2000年代以降(「Minimum-Maximum」から)クラフトワークのライブ空間を題材にするが、本論は「演出されるステージ上の空間の説明」をする際にどういう感じで書けばいいか…という見本になりそう。

gnck「電子のメディウムの時代、デジタル画像の美学――何を芸術と見做すのか/メディウムについて」

(光岡寿郎、大久保遼編『スクリーン・スタディーズ――デジタル時代の映像/メディア表現』p.329-351 所収)

ドット絵やそれを用いたGIFアニメーション作品、またトーンツール、ブロックノイズ、ジャギー、フォトグラメトリ、グリッチなどを要素としたデジタル画像による芸術作品を提示・検討し、その批評性を問うもの。「作品を記述する」方法の点ではかなり修論に活用できそう。
最近だとStable DiffusionやNovel AIを用いた「AI絵師」「AIコスプレイヤー」など「AI○○」が話題となっており、正直AIレイヤーに関してはぱっと見「現実にも居そう」感を強く醸し出す。ただイラストに限っていえば、ラーメンを食べている人を上手く描けなかったり、手が描けなかったりと独特の筆致で出力される場合もある(今は結構描けるようになってるはず)。AIイラストの独特な感じを筆致として捉えていいのか、というのはまた考えどころな気もする。

大久保遼「スクリーン・プラクティスの再設計――舞台表現におけるスクリーンの問題」

(『スクリーン・スタディーズ――デジタル時代の映像/メディア表現』p.225-247 所収)

2010年代にRhizomatiksが携わったプロジェクトを例示しながら、映像、またスクリーンの変容について論点を挙げるもの。
スクリーン研究を考えるうえでは、本論でも指摘されているように「「スクリーン」という領域を仮設的に置くことで、現代のみならず、映像史の見落とされてきた側面や他の領域との隠れた繋がりに焦点を当てる」ことが重要になる。p.237から説明されているように、Rhizomatiksの実践においては意識的に歴史的技術の系譜との関わりや位置づけ(例えばマイブリッジやマレーの連続写真、シュレンマーの振り付け、マクラレンの実験映像作品etc…)がなされている。単なる映画論の延長というわけではない。
今回自分の修論は「音楽をライブで観る」ことの問題について論じるわけだが、そこでもスクリーンの問題が入る。ステージ上のスクリーンもあり、カメラが撮影し公式YouTubeにアップされた映像として残されるスクリーンがあり……そのあたりを上手く繋げて焦点を当てるつもり。

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