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甘柑

彼女が壁に投げつけたオレンジはそろそろ焼却炉で灰になったころだろうか。厳密に言うと、オレンジは僕に投げつけられたのだが顔の横を掠めて壁に当たった。壁にはビートルズのリボルバーのジャケットが描かれたポスターが貼ってあった。真っ白な余白に飛んだオレンジの汁はまだあの時のままオレンジ色をしているのに、壁の方のシミはどんどんと色を変えまるで僕の心のようにどす黒く変わっていった。元の色に戻ることがないところまでそっくりだ。

オレンジの絵を、描いていた。なんの変哲もないオレンジの。
それは僕にとって特別なことではなかった。いや、だからこそ特別なのかもしれないがどうしてかずっとオレンジの絵を描いている。
画家なんていう大げさな肩書きは自分には荷が重たい。
でも、今まで絵を描くということ以外で人に褒められた記憶がなかった。
今回のオレンジのテーマは「忘却」だった。
忘却に思考と心を委ね、ただひたすらに集中してオレンジを描いてゆくのだ。記憶のマフラーを端から順番に解いていくような気持ちで、自分を無くして行く。そうしながら目の前のオレンジと、もう一つのオレンジになろうとしているものだけに集中する。
彼女は多分、恋をしているんだろうな。とふと思う。忘却の過程で見つけたエラーのような感覚でそう思う。
もちろん自分以外の誰かと。それは思うというより、「理解る。」という方が的確な表現かもしれない。
僕は自分を無くしていく過程で見つかったほころびの形をぼんやりと眺めている途中に、夕陽を背に帰り道を歩く彼女の笑顔の横顔を思い出していた。でも、ほころびの中にあってしかもそれはもう解けていったあとだったので、夢との境目すら曖昧な、そんな思い出ではあるのだけど。
しばらくあんな風に笑う彼女を見ていないな。と思う。

あの頃、二人は笑えるくらいに生活に困っていた。
上京してすぐだった。
彼女は女優を目指して劇団を転々としながら舞台稽古をする日々で僕はその頃からずっとオレンジだけを描いていた。
次の給料日まで10日以上あるのにスーパーで二人の財布の中身を合わせても1000円なかった時はもう本当に笑うしかなかった。
仕方なく白菜をひと玉だけ買って、家に帰って白菜だけの水炊きを二人で作って食べた。けど、本当にそれが僕にとっては呑気な話、とても幸せだった。貧乏は困るけど、でも二人で食べた白菜だけの水炊きは身に沁みるほど美味しかった。
そもそも容姿も気立てもよくどうしたって目立つ彼女は上京に伴って環境が変わったことによりその活動もより活発なものに変わっていった。事務所にも所属するようになって随分と活動も軌道に乗り始めた。
徐々に生活が変わっていって、確かに金銭面で絶望的な思いをすることは少なくなったが僕は少しだけ居心地が悪かった。
彼女は僕の夢をとても真剣に応援してくれていたので、金銭的には随分と助けてもらうことが増えた。
彼女は以前よりも僕の描く絵の感想を、より具体的に話すようになっていった。

完成間近の「忘却」のオレンジをみて彼女は
「なんだか作風が変わったのね。」
と言った。
それを聞いてどうしてか怒りが抑えきれなくなって
僕は静かに「作風が変わったのは君もそうじゃないか。」
と、怒りを押し殺して言った。その言葉はもはやトゲでしかなかった。
「そもそも、どうしてオレンジだけしか描かないの?こんなに色んなものが溢れてる世の中でいくら絵画だとしても多様性を持って然るべきだと思うけど。埋もれちゃうよ、そんな頑固だったら。」
「いや、もういいよ。」
「どうして逃げるの?そうやって問題と向き合わないからいつまでたってもそのままなんじゃないの?今まで続けてきて結果が出てないってことはさ、きっと何かを変えないといけないってことなんだと思うけど。」
「誰かの機嫌をとって評価されることになんの意味があるの?僕にはそういう考え方はよく理解できない。」
「そんな呑気なこと言ってる場合?いつまでそうやって自分の中に閉じこもっているつもりなの?」
「そういうつもりじゃ、ないよ。ただ、なんだか君は多分もう変わってしまったんだと思う。昔はこういう僕のやり方を応援してくれていたじゃないか。」
「そりゃ、変わるわよ、人だもの。変わらないあなたがおかしいの。」
そういう彼女の口調は、一見諦めの体をとってその実、単に冷めてしまっただけのように感じられた。
「ねぇ、浮気してるでしょ?」
そう僕が口にすると反射的に彼女はオレンジを投げつけた。

「どうしてさぁ、そういうタイミングでさ、本当のことを言っちゃうの?あなたは。」

床に転がったオレンジの割れ目からは白い綿と瑞々しい果肉がのぞいている。

それが彼女と彼氏だった僕らの最後の時間である。
「忘却」のオレンジはそれから何回か描き直されて完成した。

キャンバスには真っ黒のシミとオレンジ色のシミが描かれているだけだった。