川端康成の雪国を読んで思いついたお話。

葉子という名前が古臭くて好きではなかった。
響きもさることながら、漢字なんて葉っぱの葉である。
物心ついたとき父にどうしてこんな名前をつけたのかと問い詰めた。
小説家志望で実際は郵便局員だった父は
「言葉にも葉書にも葉という字が入っているから。」
と答えた。父は寡黙で、そして嘘をつかない人だった。
自分の名前に「希望」とか「期待」とかそういうメッセージが込められていないということを知って幼い日の葉子は少しだけがっかりしたのだった。

「よーちゃんさ、いつもプチトマト最後に食べるよね?嫌いなの?」
由美がいう。ランチのカルボナーラをすっかり食べてしまって暇を持て余してしまったのだろう。
「やだ、そんなとこまでみてるの?鋭いなぁー。」
と言いながら思い出すのは父のことだ。
父はとても礼儀にうるさく自分が食べ始めるまで母にも私にも料理に手をつけさせなかった。そして、食べ物を残すことを許さなかった。
普段から寡黙な父は私が学校で父の日に書いた絵を見せても一瞥し、
「良くかけているじゃないか。」
というだけだった。
私はとても悲しくなってその場で絵をビリビリと破いて捨てた。
流石にその時は父も悪いことをしたと思ったのか
ぶっきらぼうに「すまない」と謝ったが、私はその一件以降父に嫌われているのかもしれないと心のどこかで思いながら日々を過ごした。
ある日のこと、食卓にプチトマトがでた。ハンバーグの付け合わせである。
私はプチトマトがとても好きだ。
私は好きなものを最後に置いておくタイプなのである。
その日も例のごとくプチトマトを取っておいた。
サラダを食べて、ハンバーグと白ご飯の配分を意識しながら食べ終え、味噌汁を飲み終わった時、父が静かな厳しい声で
「葉子、プチトマトが嫌いなのか?」
と尋ねてきたので首を横に振ると
「食べれないのなら父さんが食べてあげよう。」
といって、プチトマトを食べてしまったのだ。
父もプチトマトが好きだったのだ。
「こんなに美味しいのに。」と言いながら少し嬉しそうに父の表情がほころぶところをみて初めて人間らしい部分に触れた気がした。
それから葉子はプチトマトを残すようになった。ただ、父の柔らかい表情を見るために。それが葉子にとっては嬉しかったのだ。

父が病床に臥せった時、私はもう社会人でOLとして働いていた。
母からの連絡は簡素だったがもう先が長くないという空気が文面から感じ取れたので、仕事を休ませてもらってお見舞いに行くことにした。病院の近所のスーパーでプチトマトを買ってから病室に出向いた。
父は呼吸器をつけて眠っていた。
私がきたことに気づいて父が目を覚ますと、父は想い出話をするように話をしだした。
「葉子、お前に嘘をついていたんだ。」
「なんの嘘?」
病室は点滴の落ちる音まで聞こえそうなくらい静かだった。
「葉子という名前は、雪国という小説の登場人物からいただいた名前なんだよ。雪国という作品を呼んだことはあるか?」
「なんとなくしか覚えてないけど、読んだことは覚えてるよ?葉子って人確かに出てきてたかもね。でもどうして?」
「あの作品を読んでお父さんは小説家になることを目指し、そして諦めたんだ。もちろん、お前が産まれるということも決まっていたから売れない小説を書き続けるということがどれだけ無謀なことかも少し考えればわかることだった。そういう理由もないわけではないが、なんどもお父さんを奮いたたせてくれたはずの『雪国』がお前が産まれることが決まってからは超えられない壁にしか感じられなくなってしまった。お父さんが思うに『雪国』の美しいところは葉子で始まって、葉子で終わるところなんだよ。もちろん作中の全ての文章は洗練されていてどこを切り取って読んでもこれ以上ないというくらいに美しいが、葉子こそがあの作品の光であり、影であるんだとお父さんはずっと思っていた。だから、お父さん自身が小説家という人生を諦めて新しいスタートを切る時に産まれたお前に、今思えば勝手だったかもしれないが葉子という名前をつけたんだよ。お父さんにとっては葉子、お前こそが始まりでそして終わりだったんだ。」

その話を聞いて、正直どう思えばいいのかはわからなかったが、「言葉と葉書」よりは幾分か深い意味があるように思えてどちらにせよ父親のエゴではあるがそれでもなんだか悪い気はしなかった。

「お父さん、私も嘘付いてたんだ。」
「どんな?」
「わたし、ほんとはプチトマト大好きだったの。」
そう告げると父はふっと笑って
「そうか、ずっと、ありがとう。」
と言った。
それから8日後に父は天国へ行った。

そういう理由で、いまだにプチトマトを最後まで残しておいてしまうのだ。

「わたし、好きなものは最後にとっておくタイプなんだ。それだけだよ?」
「そうなんだ、好きなものは最初に食べたほうがいいよ、お腹いっぱいになっちゃうじゃん!」由美は言う
「いいのいいの。これでいいの。」

それでもやっぱり葉子っていう名前は古臭いと思っちゃうな。
そう思いながら葉子はプチトマトを頬張った。
残念そうに「偉いじゃないか。」という父の顔が浮かんで少し口元が緩む。
きっとお父さんと同じ顔してるだろうなぁ。と思いながら
「今度は、一番最初に食べてみよっかな、プチトマト。」
と葉子は言った。
「ぜーったいそのほうがいいよ、残してたら誰かに横取りされちゃうかもよ?」と由美が冗談めかして言うので
「そうだね。」と葉子も笑った。