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4つの実験/写真集の

 2019年3月に横浜で開催されたフォトブックフェアPhotobook.jpで、横田大輔の写真集が無料で配られるという、太っ腹な企画が行われた。しかも4種類あり、それぞれグラフィック・デザイナーが違うという贅沢なもの。1人の写真家の写真を、おそらくは予算的な制約がある中で、デザイナーたちがどう本に仕上げたのか。その4冊の写真集(Print House Session 2019)について、私が感じたいくつかのことを書いてみたい。入手できた方は写真集を見ながら、入手できなかった方は想像しながら読んでみてほしい。

■Heartpressed
 判型はあまり大きくない。文庫本より一回り大きい程度か。手に取るとその軽さに驚く。紙の手触りが普通の本のそれとは異なる。軽さに反して厚みがあり、ざらざらしている。
 横田の写真のほかに織田作之助の短篇「注射」が印刷されている。文字の間隔が普通の文字組より空いている。読みづらい。が、その印象は写真ページで一変する。文字1つ1つが透けて、写真に点々と穴を空けているように見えるのだ。いや、穴ほどは大きくなく、点々のようなもの。BCGのスタンプのような針跡のようにも見えてくる。
 写真に何が写っているのかよくはわからない。だが、なにがしかの現実を反映していることはわかる。だが、その現実は瀕死の状態のように見える。つまり、写真という本来、現実の断片を嫌になるほど正確に写し取るものから、現実が逃げだそうとしているかのようだ。それくらい現実感が薄まっているのである。
 その「薄さ」に、用紙も貢献しているのだろう。空気を含んでいる紙は透けやすく写真もまた薄く引き伸ばされたように感じられる。もともとの写真を知らないから、それが印刷によって薄くなったのか、それとももともとそういう写真だったかはわからない。ただ、この薄さは軽さと相まって、写真を頼りないものに見せている。だがそのことが逆説的に、それでもなお、写っているものが何かを言い当てることができる程度に現実が残っているとも言える。
 活字の点々とした文字が写真を裏から撃つ。それでも写真は現実の断片をそこに写し出す。そのしぶとさ、したたかさは、写真の手に負えなさを象徴しているようでもある。
 写真集は最初の1枚があり最後の1枚がある。写真が並ぶ順番があるのである。その流れを見ると、最初の1枚は写真家自身のものであろう両脚が写っている。鈴木清の写真を思い出す。マーティン・パーにもあったような。続く写真は、よく見えない画面の中に、ベッドの上の裸の女性らしき姿が。露出がアンダーで、解像感が低く、写真の肌理が粗く見づらいのだが。そして最後は部屋の中にいる男性のショットで終わっている。横田大輔という写真家に知識がある人なら、写っているのが横田だとわかるはずだ。
 織田作之助の「注射」は、注射嫌いだった男が、愛妻の闘病で注射を打つことを覚え、妻の死後、注射にのめり込んでいくさまを描いた小説である。写真に言葉が添えられていれば、読者は言葉を手がかりに写真を解釈することになる。横田大輔についての予備知識があれば、その多作ぶりと注射にのめり込んでいくさまを重ねることができるだろう。実際、写真集の最後にデザインを手がけた町口覚がその旨を書いている。
 このプロジェクト全体に言えることだが、それぞれの写真集はデザイナーが主導してつくられている。通常、写真集は写真家による表現物で、デザイナーは写真家の意図を汲み、アシストする役割である。だが、町口の文章を読むと、写真をどのように料理するかはデザイナーに完全に任せられていたようだ。
 町口が書く写真集制作の経緯はわかりやすく、この写真集のコンセプトも明解である。町口は横田大輔という写真家の本質をここだと定め、その本質を伝えるために織田作之助の小説を補助線として引いている。そして、その補助線を読み解く上で、横田の写真がヒントになるという構造をつくっている。つまり、図と地の関係が逆転する入口をつくっているのだ。したがって、この本は横田の側から(写真の側から)見るか、織田の側から(小説の側から)読むという二つの楽しみ方ができるわけだ。
 町口はすでにこれまで森山大道、野村佐紀子の写真と日本近代文学の作品を組み合わせたシリーズを自身のレーベルから出版してきた。この「注射」はそのスピンオフ的な位置づけと言えるし、町口式のデザインによる写真論、写真集論だとも言える。そして、その「論」を支えるものとして、造本や印刷についてのコメントが添えられている。

 写真集は写真家のものであると同時に、グラフィック・デザイナーのものでもある。デザイナーはアート・ディレクター、装幀家とクレジットされる場合もある。いずれにせよデザインと印刷をディレクションする立場である。この両者に、プロジェクト全体を見る編集者、印刷・造本の専門家たちが加わって1冊の写真集ができる。
 Photobook.jpのこの4冊の写真集の特徴は、写真家は1人だが、デザイナーがそれぞれ違うということだ。それも、現在の日本で写真集を多く手がけている気鋭のデザイナーたちが取り組んでいる。そして、彼らと印刷・造本の専門家たちとが写真集の可能性を探るというテーマが設定されている(のだと思う、たぶん)。
印刷:藤原印刷株式会社

■Four|Matter
 デザインは加藤勝也(ほかのデザイナーについてもそうだが、興味のある方はググってみてください。4名とも写真集を年に何冊も手がける第一線のデザイナーだ)。
 4冊の中でもっとも変わったかたちの本である。A4ほどの大きさで正方形。左右で大きさが違う表紙が観音開きになっており、それを開くと、左右にそれぞれ16ページずつ綴じられた写真が現れる。どちらもカラーで、完全に抽象的なイメージと、ベッドの上の人間の腰から下や、建築物の一部が写ったものがある。面白いことに抽象的なイメージはきわめてシャープにディテールを写し出しているが、人物や建物は露出が足りなかったり、画面が荒れていたりして曖昧だ。どちらが現実感があるのか。見ているこちらの認識を問われているような気持ちになる。
 左右のページを開き終わると、今度はその下に上下に綴じられたページが現れる。カラーの少し丈の小さいページは左右のカラーページと同じ用紙でカラーだが、その下にある上下各16ページはどちらもブラウンがかったモノクロである。写真はシルエットの男性ヌード、女性ヌード、樹木、室内、路上で撮影されたスナップなどさまざま。一点だけ、上下の写真がつながるページがある。
 通常の写真集では見開きは固定されている。先述したように、本には始まりがあって終わりがあり、一直線の道を読者に歩かせるのが通常の本だ。しかしこのやり方は道を分岐させ、読者の選択肢を増やすことになる(同時に、迷わせもする)。
 写真の見開きは、写真家、あるいはデザイナーの意図が反映されている場合が多いが、ここではその意図は放棄されている。とくにこの本の場合、見開き単位で見ることさえ前提になっていない。左右に距離があるので、個別に左、右(あるいはその逆)を見ている人も多いだろう。
 細長いタテの判型に裁ち落としで展開する写真はカラー、モノクロの違いはあれど抽象的なイメージである。何が写っているかを仔細に検討するには判型が小さいし、写真の数がそれなりにあることを考えれば、ページをめくっていく、そのアクションに意味があると考えたほうがいいだろう。写真はイメージだが、写真集はモノになる。多くは本の形式を踏襲するが、そこから立体物、オブジェとして立ち上がろうとする場合がある。この作品はその方法論を採ったものだと言える。
印刷:株式会社山田写真製版所

■8K/MATTER/DAISUKE YOKOTA
 和綴じである。紙にはキラキラと光る何かが入っていて、和紙なのだろう、雅な雰囲気がある。私は横田大輔の写真を以前から見ていて先入観があるので、横田大輔のソリッドな写真との組み合わせは意外だった。だいたい、こういう紙はお正月とかお祝い事に使われているような「ダサい」ものだったような気がする。というか、そもそもこういう紙は写真集には使わないのである。
 理由は簡単で、用紙の柄が写真に影響してしまうから。写真を見せたいなら、紙はニュートラルな無地がいい。ゆえに、この手の用紙の選択は写真集の禁忌に触れるものなのだ。
 もちろん、上記のようなことを踏まえた上でこの写真集はつくられている。デザインは町口景。写真を刷るなら無地の紙に、という写真集のセオリーへの反抗、和綴じや和風の紙のお高くとまったイメージに対するアイロニー、といったところからアイディアが出てきたのかな、と想像した。しかし、意外としっくり来ているいうか、むしろ、この紙を使ったことで横田大輔の写真の特性が表れているところが興味深い。横田の写真と組み合わせると、紙のキラキラが鉱物のように見えてくるのである。岩を割ったら、その中に横田の写真があった、というようなオカルティックな世界。写真が印刷されていなければ和風の紙だが、写真が印刷されたことで紙とは別の物質性を獲得したように見えるのだ。
 理由の一つは、選ばれている写真が具体的なものが高精細で写されていながら、それが何かわからないという奇妙な写真であること。顕微鏡写真にも、海の浅瀬にも、ドブ川の水面にも、表面が剥がれた写真にも見えるこれらのイメージに、金銀の破片が浮かび上がる。写っているものが何かはわからなくても、物質であることはわかる。結果として、紙の模様がモノとしての紙を立ち上がらせ、写真イメージと絡み合う。その相性がいいのである。
 また、印刷技術にもその理由の一端があるようだ。タイトルにもある「8K」とは放送規格で知られる高解像度のことだが、この写真集のクレジットによれば「印刷の8K」とのことで、サンエムカラーが誇る超高精細印刷方式とのことらしい。用紙の中に散らされた物質と、写真に写った物質との相性がよかったのはそのためかもしれない。
印刷:株式会社サンエムカラー

■Printed/Matter
 デザインは田中義久。4冊の中で、一見、もっとも「何もしていない」ように見えるが、実はとても繊細な写真集。まずその綴じ方が独特で、熱で閉じたのだろうか、綴じ部分に写真家の名前とタイトル(?)の一部が読みとれる。ページをめくると、紙がぽろぽろと崩れ落ちていく。紙片が散っていきそうなバインディングなのだ。
 紙はカラーコピーの用紙に感じが似ていて、片面は油分を感じるが、片面はざらっとしている。表裏のある紙のようだ。薄くてすぐに折れてしまいそうでもある。実際、ページをめくっていくと、中にはよれたページもあった。しかし、そのよれていることが、横田大輔の写真の内容と違和感なくなじんでいる。写真に写っているものが紙という立体物と重なって見えてくる。
 私たちが通常、手にしている写真集は、印刷・造本のプロによるもので、ミスは許されない。しかし、手作り本はむしろミスを人間的なものとして受容し、一般の「商品」とは異なるものとして楽しませてくれる。
 そもそも横田の写真に写っているイメージがそもそもよれたり、くずれたりとエラーを連想させるものなのである。しかもそれらがときには平面的に、ときには立体的に表現されており、大いに偶然性を取り込んでいることがわかる。
 そもそも横田自身が自作してきた写真集はカラーコピーを綴じただけのようなざっくばらんなもので、そうした作家の履歴を踏まえつつ、新たな驚きをどう生み出すかというデザイナーの企みが読みとれる。だが、横田の過去のZINEと異なる驚きもある。見た目で予想し、手に取った感覚のままページをめくりはじめると、なかなか最後まで行き着かない。ページ数が多いのである。紙の薄さゆえではあるのだが、めくってもめくっても終わらないというのは不思議な体験である。
 綴じ方が綴じ方なだけにページをめくるのも緊張するが、慎重に扱うというプレッシャーこそが、本をめくる新しい経験となる。
印刷:Live Art Books


 横田大輔の写真についても少し書いておきたい。
 横田の作品についてはその制作方法などがインタビュー等で明らかにされているので詳述しないが、共通するのは、写真という物質をめぐって大量の作品をつくってきたことだ。よく見える、よく写っていることが良いとされる写真のイメージを破壊し、それでもなお、「写っている」ものを提示するのが横田の方法である。フィルムを高温現像したシリーズはフィルムそのものを作品にしているようでいて(実際、イベントでその展示もしているのを見たこともあるが)、スキャニングという、レンズを使った光学機器を通した「写真」であることに留意したい。
 つまり、写真をどこまで壊しても、写真には何かが写っているし、写っていなかったとしても、写っているように私たちの眼は見てしまう。したがって、これらは写真としかいいようがないのである。
 
 では、横田大輔の写真を写真集にするとはどういうことなのだろうか。

 目の前にある4冊の本は写真以外のイメージ、たとえば絵だったらどうなったのだろう。横田の写真が通常の、よく写った、現実の似姿としての写真ではないだけに、なぜ写真なのか、という問いが浮かんでくる。
 Photobook.jpという写真集フェアのノベルティーだから、という身も蓋もない答えをのぞけば、ここにはそれでもなお、現実の断片が写っているから、とひとまずは言うことができるだろう。
 横田大輔が写真を破壊しようとして壊しきれないように、デザイナーたちもまた、写真、あるいは写真集という既存の形式に抗いながら、しかし、その引力の強さに引きづられてもいる。
 この4冊は、実験的という点で共通するが、その実験において参加した写真家、デザイナー、印刷・製本の技術者たちが、写真というこの厄介なしろもの(現実に似ているようで現実とは別のもので、現実とは違うもののようでいてやはり現実を記録している)とどう向き合ったか。4冊を通して感じたのは、写真が現在でもなお、挑みがいのあるメディアだということだ。

                                                                  text by タカザワケンジ(写真評論家)

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