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[diary]08/08 朝の改札では、おおぜいの人がーASKA賛歌

ASKAのソロ曲に、「月が近づけば少しはましだろう」という名曲がある。

どうしようもなく疲れてしまったときや、やるせなくて立ち上がれないな、と座り込んでしまうような夜が、誰にでもあると思う。
そういうとき、そばに居続けて励ましてくれるのがこの曲だ。
曲調の重さと歌詞が相俟って、どこまでも暗く沈んでゆくような重い胸中に、やさしく染みる。

この曲のリリースは95年とあるから、私は13歳、つまり中一だ。
そんな歳からこの歌詞に共振する中一というのも、初々しさのかけらもなくて我ながら嫌になるのだけど、そうなんだからしゃあない。一生こういうもっさりした感じで生きていくんだろうな……。

しかし今になって感じる痛みと、当時の「わかりみ」とは、格段の差がある。
というか、当時は、サビ部分の「積もり始めたら 泣けて仕方ない」というワンフレーズのみに反応していたフシがある。
いじめにあい、孤立し、でも友だちはかろうじて存在し、家庭内はわりとめちゃくちゃで、できごとひとつひとつには耐えられても、それが積み重なって延々と続く。鬱屈した日々に窒息しそうになっていた、思春期特有の疎外感には、優しく響いたのだろう。

じゃあ、最近の感じ方はどうかというと、わりとのっけからぶん殴られる。
引用してみる。

いろんなこと言われる度にやっぱり 弱くなる
いろんなこと考える度に 撃ち抜かれて
恋人も知らない一人の男になる

キツい。「やっぱり」がきつい。
何度も何度も繰り返して、あ、そろそろ慣れたかな、強くなったかな、克服したかな。そんな小さい自信を積み重ねる。
それでも、ある日「やっぱり」がやってくる。
長い時間かけて積み重ねてきたが故の、落胆の深さみたいなものが、この「やっぱり」にあるような気がする。
恋人にも言えない。わかる。どうしようもなく一人になる。わかる。わかる。

しかしここ10年くらいでもっとも強烈なのは、このくだりだ。

朝の改札では 大勢の人が流れていく
カーテンを引いて ベッドに転がる
静かに変わる時間を 閉じるように瞼を閉じる
月が近づけば 少しはましだろう

中学生当時のやさぐれ優等生女子だった私は、この部分を「ASKAは歌手だし、出勤はしないよな」くらいに思って流していた。
が、今読むと、はちゃめちゃに染みる。どうしてもこの箇所にくると、「グオオ」と唸りながら泣いてしまう。

だって、主人公は、「朝の改札を流れていく大勢」には入れなかった人間なのだ。
もちろん、「大勢」のなかには様々な人がいるはずだ。しかし、朝になれば動き出す一団というものは確実に存在し、社会ではそれが通常とされていることも事実である。
ここには、「通常」から取り残された者の背中、そこにはりついた孤独がくっきりと刻まれていた。
自分がそういう孤独と仲良しになるとは、あの頃は思っていなかった。
それがまた、なんというか、ちょっとばかりキツい。Life goes on感がある。

ちなみに、この歌詞は以下のように続く。

動きたくない身体を 毛布に沈めて聞いてた
鳴り止まないサイレンの音 胸の音なのか

「鬱じゃん」
思わず口に出した。鬱だよこの人!病院!
ASKA、本当に大変だったんだな、この頃、と思って、また泣いた。(ちなみに自分が「あ、これ鬱」と判断下せるようになるとも思っていなかった。そういう意味でも泣ける。)

それにしてもASKAは凄い。
あの嫌な動悸や、理由なく迫り来る不安を「鳴り止まないサイレン」「胸の音なのか」という2フレーズで的確に表わしてしまう。
「角を曲がると消え失せてしまう」「この指の先でそっと拭き取れる」言葉。
あるねー。あるよねー。
ASKAは恐らく、私が思春期に大きく影響を受けた人間の一人だろうと思う。
私には、文章を書く突出した才能はない。書きたいという欲求もない。
私が文章を書くことにずっと親しんでいるのは、そうでもしないと頭のなかに渦巻く言葉が追い払えず、爆発してしまうからだ。ご飯をたべたり、トイレ行ったりするのと同じ。
だから、表現をしたい、というクリエイターさんとは、ちょっと違うのだろうと思う。
そんな私にすら、こんな言葉が書けたらかっこいいな、と漠然と思わせてくれた初めての人が、ASKAだったような気がする。


https://www.youtube.com/watch?v=koFH_CgaHQ8
ところで埋め込み表示できなくてさみしいのですが、とても良い歌なのでみなさん是非聴いて下さいね。