某作品その後とか、映画ベストとか

年末だ。

今年はnoteをほとんど書かなかった。反省している。
映画の感想を表に出すことをやめたのと、二次創作を始めた時期がほぼかぶっていたのは偶然ではない。

が、そっちの総括は置いておいて(ベスト関連は後半にあります)、まずは個人的な始末の話を。

***

某映画について、某ストリーム番組を聴いたり、複数のオタク友だちと話したりすることでだいぶ整理がついた。
特にストリームでは、肯定的な“批評”を聞けたのがとても良かった。「あらゆる形態の表現をストーリーテリングという視点のみから見る」という断言は、最近私が抱いているさまざまな疑問に対する解として説得力もあった。良い悪いは別にして、これだけ多くの表現形態とコンテンツがあふれている今、評価軸を「どのコンテンツにも存在する(ことが多い)要素の技法一点」にしぼるのは、当然の帰結なのかもしれない。省エネでもあるだろうし。

ただ、この評価軸は、ストーリーが存在しないような作品には通用しない。
「それはそれ」で対処出来る人はいいだろう。だが、自分の中では処理しきれないほど圧倒的に未知であったり、巨大すぎて捉えきれない「何か」にぶつかったとき、それを受け止めるだけの余地がある回路を備えていないと、「ここに何かあるぞ」というアンテナすら働かないのではないか。作品そのものがスルーされてしまう(し、実際されている)懸念がある。

映画(小説でも、なんでも)という表現形態そのものを好む者は、その「何か」を逃したくなくて、日々自分の中に要らん回路を蓄えてはあてどなくフラフラしているともいえる。そんなん埋蔵金探しとなにが違うのと言われれば、「埋蔵金は絶対にある」ことくらいだろうか。大事なことだけど、まあ、バカっぽくは見えるかもしれない。意味もない。だが、意味のないことは楽しいし、そこにしか私は生きる活路を見いだせない。

また、ストーリーテリングの技法は、マーケティングとも容易に手を結びやすい。知識網羅型のオタク的態度(私はこれが単純にものすごく嫌いなので、言い方が嫌味ですまん)がそうであるように、力を持ったものに容易に操作されやすい。「操作」というはっきりした意図はなくとも、忖度であったりノリであったり、あるいは配慮という形で現れるかもしれない。
表現というものは、そういったものから、なるべく離れたものであってほしいと個人的には思っている。(この文章のあとに「もちろん表現者の責任はあって~」云々と但し書きをつけたくなる欲望そのものが、おそらく表現の「敵」なんだろう。)

以上の点から、「その視点があったか」の膝打ちが、私の某作への評価を覆すことにはならなかった。が、とにかく視界が開けてとても面白かったし、やはり批評は思考の補助線になることを再実感して、ありがたかった。

ここまでが”映画”作品(番組内で「俺このシリーズ興味ないんだよね」と宣言し、調整役に徹していたT氏が、「こんなもん映画じゃない」と吐き捨てるように言った瞬間、私の中でなにかが溶けていくのをかんじた)についてのあれこれで、以下は映画とはなんら関係ない話だ。

私は、とあるキャラクターがとても好きだった。今でも好きだ。彼の誕生時から、制作側が「末路が死か改心しか残されていないようなキャラクター」として彼を生み出したことの責任をどう引き受けるつもりなのか、ずっと見守っていた。

その結末が、「改心」した上での「死」であったことは、滑稽すぎて悲惨だ。あまり自覚はできていないが、つめたい怒りも抱いていると思う。何も手出しできず、ただ趣味の悪い残酷ショーと化していく物語の観客で“あってしまった”という理不尽な罪悪感が消えない。ただ、彼が消失した空間をみつめることしかできない。ごめんね、という言葉もひとりよがりでむなしい。なにが「二次創作は自分を救うため」だ。安っぽいお為ごかしに易々と乗った自分のみっともなさが今は情けないし、恥ずかしい。消失で空いた穴はけっして埋められない。その形を愛おしめるようになるまで、私は自分なりに「やっていく」しかない。周囲からばかじゃなないの? と揶揄されても、私はそうなのだから、仕方ない。だから、「書く」ことに、これから初めて向き合うことになりそうだ。

【ちなみに、ストリーム番組名を明かさないのは、そもそも私が書いている文章を読めない(んだかわざと読まないんだか)人に、あてこすりを言われることにうんざりしたという経緯が発端となっています。わたしなりに思うところあってぼかしました。ちょっと調べればわかると思うので、せめてそれくらいの手間はかけてから嫌味なりを言ってほしいし、Twitterをそういうふうに使う磁場からは離れたい。もう、うんざりです】

***

今年は、3年くらい前から始まっていた「新しいこと」の諸々に対して、ひとつの整理をつけた年だったと、いま振り返ると総括できそうな気がする。かってに背負い込んだ不要なものをそぎ落とし、自分の立っている場所/立ちたい場所を再確認した年にもなった。てはじめに、来年はきちんと映画の感想をことばにすることを、また始めたいと思う。

映画ベスト10は選出しない。(『アップグレード』が最強だったという点は揺らいでいない。アホなので)
映画ベスト10は、「誰が」「どの作品に」入れているかの文脈にこそ面白さがある、と私は思う。それを教えてくれたのは映画秘宝だった。映画秘宝がいなくなるニュースが駆け巡った年に、映画ベスト10を選出しないのは、なんとなく現在の風潮への、私の意地でもある。
映画秘宝、私を育ててくれてありがとう。あなたがそんな簡単にくたばるとは思っていないのであまり心配はしていない。今後を楽しみにしています。

海外ドラマは『マインドハンターS2』の異様な遅さに助けられた。他にもたくさんあったんだけど、その少ない時間をやりくりしてまで2周したドラマは本作だけでした。『キリング・イヴ』も異様に面白かったな。

ことしの本は『特別ではない一日 kaze no tanbun』がベスト。本は例年にくらべてたくさん読んだ。今はアラン・バンクス『蜂工場』完全版をじりじり読んでます。マコーマック『雲』はまだとっておいてる。

音楽アルバムはTOOL『Fear Inoculum』(だって良かったんだもーん)、あとなぜかUlver『Kveldssanger』を良く聴いてたな。

ゲームは『SEKIRO』以外に何があるというんだ。お前には見えないのか。エルデンリング。わーい!

そして、なにをおいても今年いちばん面白かったのは、文句なしにブンゲイファイトクラブだった。私がいかに読めないかを痛感させられることも多くて、途中から感想を述べることさえ怖くなった。要はびびったのである。ただの観客のくせに。雑魚い。文芸であんな空気が体感できるとは思ってもみなかった。たのしめる領域が増えた事実にも、ちょっとだけ勇気づけられた。

Twitterはだいぶ変わってしまったが、それでも面白いことはまだある。だから、私は私の場所へ行こうと思う。

そんな2019年でした。
それでは、また来年。っていうか、明日かあさってくらいに。