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安楽死と福祉・寛容さ

最近のツイッターを見ていて、私が安楽死合法化希望派なのに一方で高齢者や社会的弱者を擁護することを、もしかしたら意味不明と思われる方もいるかと思いましたので念のためざっくり説明しますね。

尚、用語として、

【安楽死】は、医師が患者の体内に致死薬を注射などで投与すること

【自殺ほう助】は患者が自ら致死役を飲むか点滴のクレンメを開き体内に入れること

が世界標準です。安楽死を認めている国は僅少なのですが、ここでは日本人にわかりやすいよう【安楽死】を使います。

安楽死は基本的に「身体疾患の終末期」などの条件の下でのみ行われるとされるものですが、安楽死可否の政治判断の場には必ず反対派がいます。反対派の一番の理由は、安楽死の選択肢ができることで、障がい者や高齢者、また人工呼吸器装着の選択をすれば生きられるALS等の要介護者などが、介護をする人たちや社会から疎まれたり疎外されたりして、当初決めた「身体疾患の終末期」でないのに死ぬ選択に導かれる、という「滑り坂論」です。
また、安楽死制度が出現することで従来の介護や緩和ケアの質が低下するという反論もあります。

そこで政府は、安楽死は身がい者や高齢者などに希死念慮を抱かせるような明示暗示の強要がある場合は認めないこととし、また、安楽死を採用する以上、介護や緩和ケアの質は決して落とさぬようにする必要があるのです。つまり安楽死はその国/州の人々の寛容さと福祉力の高さの上に成り立つ制度なのです。

ところが今の日本はその真逆にあります。国家の福祉への予算は低く、福祉の質は落ち、他人への不寛容さが増大。これでは反対派に押し切られて安楽死など実現しません。

一定の疾患の条件下、生きたくても生きられない状態は殺人、一方苦痛で死にたくても死ねない状態は拷問になり得ます。今の日本の状態はほぼ後者ですね。

生きたい人は生き、死にたい人は死ぬ選択肢を本人が自由に選べる状態を望むのが安楽死賛成派のあるべき姿です。

生きたい人への寛容さを失わないこと、福祉を充実することは、安楽死を法制化する為の必要条件なのです。高齢者や弱者への排斥思想は抑々非倫理的であるとともに安楽死をも不可能にしてしまいますのでやめて頂きたい。

自分が安楽死を希望していると語ることは自由です。ただし、それを他者に同調させることはナチスの安楽死プロパガンダと同じになってしまいますので、安楽死のご希望はあくまで一人称で語って下さい。またそれは安楽死を希望しない方も同様で、自分の死生観を他人に押し付けるべきではありません。

各自がいずれ必ず来る死を受け入れたうえで熟慮した死生観を持つこと。これが成熟した社会の在り方だと思います。


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