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No.959 フッサール現象学におけるエポケーと現象学的還元のゲシュタルト療法への影響

フッサール現象学において、エポケー(判断停止)からの現象学的還元が重要であり、この現象学はゲシュタルト療法へ影響を与えている。

しかし、このエポケーについて、間違った解釈が広がっているようである。ゲシュタルト療法へ影響を与えているのは確かであり、エポケー、現象学的還元は重要な要素であるのだが、エポケー=判断停止という間違った解釈をしているゲシュタルト療法家を結構見かける。

恐らく、この判断停止とかカッコに入れるという日本語訳が適切ではない故に間違ってしまうのだろうと思う。

このエポケーとは、自己の感覚や思考や判断といったものを停止したり、括弧に入れたりするのではない。

エポケーとは、「世界が客観的に存在しているという前提をいったん中止すること」をいう。

私たちは普段、世界が存在していることを疑わず、そのものとして自然に受け止めている。この世界は存在しており、世界のうちには様々な事物、人間、価値などが存在していると確信している。

ここでフッサールは、エポケーによって、そうした確信を一時的にストップしてみよう、と言うのだ。

そのことは、「世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということ」である。

世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩である。

すなわち、判断を停止するのではなく、ただ単に私の主観から、目の前にある現象を純粋に私の五感を通して確信することである。

それは、私がある対象を知覚していること、ある判断を行っていることそれ自体であり、ある対象が見えてしまっていること、知覚や判断が私の意識に生じてしまっていることについては、決して疑うことはできない。

そして、このエポケーは、デカルトの方法的懐疑をもとにして編み出された考え方である。

デカルトの方法的懐疑とは、「この世界の一切(客観)が疑わしいと考え、とことんまで疑ってみても、その疑っている自分(主観)が存在することは疑うことができない。これが、「われ思う、ゆえに、われあり(cogito ergo sum)」である。

この疑っても疑うことのできない存在をフッサールは「純粋意識」と呼んだ。

以上のように、意識の外側に客観が存在するという前提から出発するのを止め、客観認識の条件を、内在的知覚から与えられる絶対的所与性に求める態度変更を、フッサールは還元と呼ぶ。

それは、私たちの客観世界にある憶測や想像、想起といったものから出発するのではなく、ただ単に私の主観から、目の前にある現象を純粋に私の五感を通して確信することから出発するという、発想の転換、視線の変更を意味する態度変更のことであり、これを現象学的還元という。

このフッサール現象学におけるエポケーと現象学的還元がゲシュタルト療法へどのように影響しているのか、ゲシュタルト療法を既に学んでいる読者の皆さんには十分に理解できるであろう。

セラピーの場において、私たちセラピストがクライエントが向き合う時、セラピスト側が自己のこれまでの直接経験から作り上げた解釈や憶測、想像などを通してクライエントに接するならば、クライエントに起こっている現象に対して、純粋意識を持って向き合うことはできない。

すなわち、私たちセラピストは、そのクライエントに起こっている現象を私たちの主観である内在的な五感を通して知覚し、純粋意識として浮かび上がる感覚を受け止め、認める必要がある。

これがエポケーであり、現象学的還元である。

このセラピスト側の態度こそがセラピーにおいて、クライエント側に安心安全な感覚を与え、クライエント側の純粋意識を浮かび上がらせる役割を担うのだ。

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