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自分を取り戻す?小学校時代後半 #6


今回の台風は、風🌀台風なのかな?
長いこと強い風が吹いています。

あれこれ自分の記憶を繋ぎ合わせて書いていますが、思い返すと楽しいこともそれなりにいっぱいあったかなぁ❣️

当時、私が住んでいた馬込というところは、まだ交通機関があまり発達していなくて、最寄りの大森駅に行くには、バスで20分くらいかかる不便なところでした。

子どもだった私は、全然知らなかったけど、近くには三島由紀夫の家があったり、今では「馬込文士村」と言われ、尾崎士郎、宇野千代、北原白秋などの若き文士達がたくさん住んでいたといわれる地域。

家のすぐ近くの小さな川沿いには、ソメイヨシノが100本近く植えられ、お花見の時期には屋台も出たりしてとても綺麗な桜並木でした。
そしてその周りには畑がたくさんあって、通学路はとてものどかな田園風景が広がっていました。(肥溜めの匂いはたまらなかったけど😰)


私が6歳の時には、もう1人弟が生まれ、両親は相変わらず必死に働いていました。弟達は保育園に預けられ、私は俗に言う鍵っ子。

4年生になって、山城先生という腹話術ができる優しい男の先生にかわり、親から干渉されることもなく、あまり友達がいなかった私は、2歳下の弟とよく一緒に遊んでいました。

セミやザリガニを取ったり、立ち入り禁止の資材置き場で基地❓を作ったり。なかでも面白かったのは、神社の社務所の縁の下に、蟻地獄(ウスバカゲロウの幼虫?)のすり鉢状の穴がたくさんあって、そこに捕まえたアリンコを落とすと、蟻地獄が顔を出して蟻を食べちゃう❗。。。 ️🐜さん🙇‍♀️ごめんね〜

なんか、男の子の遊びばかりだ‼️😰

思い返してみれば、まわりには自然がいっぱいあって、貧しかったけど、幸せな時代だったのかもしれません😊


そして私が5年生になった時、都営住宅が当たって、引っ越すことになり、3度目の転校‼️
それも、一番最初に間違って入学した、 入新井第四小学校

通称、いりし(ビリし)と呼ばれていたこの学校は、子どもが多くなって、お隣の入新井第二小学校が手狭になり、
今ではさびれてしまったけど、観音通り商店街(商店街の中間に観音様がいる)の入り口に急遽つくられた、小さな学校でした。
校庭も土ではなく、体育館も校舎の2階にあるような、梅田小学校とは全然違う環境。

それでも、今までの私のことを知ってる子がいない事で、私は持ち前の明るさを取り戻し、活発な子に変身〜❣️したのでした。

つづく

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