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川柳閑話vol.5:かづみ的川柳道#5 川柳大学時代(後編)

 自分の句集を出したわたしは、次なる目標に進みます。


1.二人句集『タッグマッチ』を出す

 わたしの大阪時代は渡辺美輪さん抜きには語れません。美輪さんの第一句集の感想を言うために会った日以来、美輪さんは何かにつけて声をかけてくれるようになりました。
 川柳大学の定例勉強会は「ゼミ」と呼ばれていましたが、このゼミに誘ってくれたのは美輪さんです。大阪にもゼミはいくつかあったのですが、わたしは美輪さんが参加していた「夙川ゼミ」(兵庫県西宮市)に通うようになります。
 ゼミは月に一度、日曜日に開催されていました。その前日の土曜日夕方、わたしと美輪さんは神戸の居酒屋で待ち合わせをします。そこで3~4時間飲んで語り、その後は大抵カラオケで2~3時間歌いまくります。日付が変わることも珍しくありませんでした。さんざん飲んで美輪さん宅に泊めてもらい、翌日二人揃って二日酔いでゼミに出るという流れです。
 この”ゼミ前の飲み”から、次第に川柳抜きでも二人でつるみ始めます。桜が咲けば花見酒、ビアホールの割引券があればビアホール巡り…美輪さんが大阪に来る時もあり、その時は美輪さんがわたしの家に泊まりました。
 
 ただの酒好き二人ではありましたが、わたしの中で「この二人で何か出来ないかな」という考えから早い段階からあり、実際口に出してもいました。
それというのも、わたしが大阪転勤になると聞いた曽我六郎編集長から「関西でしか出来ないことをやりなさい」と言われていたことが影響していると思われます。実際、六郎編集長は「関西は若手が多いのだから、若手で何かするといい」と仰って、わたしが転勤してすぐの頃(2003年)に「若手座談会」(斎藤五月・佐田真喜・竹井紫乙・徳道かづみ)が開かれたりもしました。

 美輪さんと「何か面白いことしたいね」と言いながらだらだら飲んでいるうちに、このままでは何もできないまま転勤が解かれてしまうかもしれない、と焦り始めました。そして、やっと2005年になって「二人句集」を出すことを決めるのです。
 二人で「恋」をテーマに見開き1句ずつで「戦う」というスタイルにしようと決まってからは、話はどんどん進みました。タイトルは『タッグマッチ』。わたしが台割を作り、美輪さんがイラストを描き、互いの句もそれぞれ調整しながら原稿が出来上がってきます。印刷と製本はまた交友プランニングセンターにお願いしました。
 そして渡辺美輪×徳道かづみ川柳集『タッグマッチ』は2005年6月5日に発行されたのです。

渡辺美輪×徳道かづみ川柳集「タッグマッチ」

 2.神戸新聞・川柳&エッセイ「川柳タッグマッチ」の連載

 2005年8月11日、その知らせは美輪さんから来ました。
 当時わたしが勤務していたのは大型コールセンターで、業務時間は携帯電話の持ち込みは禁止されていました。業務を終えたロッカールームで携帯を開くとメールが一通きており、それが「神戸新聞の夕刊で連載をしないかという話が来ています。やるよね?」というものでした。美輪さんから記者の神戸新聞の記者・平松正子さんに川柳集『タッグマッチ』が渡されており、先に二人の顔写真付きで紹介記事を書いてもらっていました。そこから何故連載という話になるのか?と頭は混乱しましたが、返事は「もちろんやります!」。迷いはありませんでした。
 
 2005年9月3日に神戸新聞社で打ち合わせがあります。平松さんの他に文化部長さんも交えた4人で連載の内容を詰めました。神戸新聞からは「一週ずつ交代で先攻・後攻を書く」という提案だったのですが、先週分を覚えている人は少ないだろうから、スペースを半分こして二人一度に載せた方がいいというわたしたちの意見が通りました。毎回、題を考えるのも美輪さんとわたし(1か月交代)。平松さんの「情熱のある文章をお待ちしています!」という言葉に押されて、連載は開始しました。

 初回は「顔見世」ということで、美輪さんとわたしが互いを紹介しあうというものでした。美輪さんが「これは一緒に書いた方がよくない?」というので、週末美輪さんちにお邪魔して書くことになったのですが、当然のごとく土曜日は飲みに流れ、翌日昼頃にようよう原稿用紙に向かうという有様でした。美輪さんは書き始めれば早いので、その場で書きあがったのですが、わたしはほとんど書けず、結局美輪さんと飲むために来たようなもんだったな…と帰り道に思っていました。

 連載は半年という約束でしたが、幸いにも好評を得て1年間に延びました。その間、書きたいことが書けて楽しい!という日もあれば、締切ぎりぎりで絶体絶命に追い詰められてなんとか絞り出した日もありました。本当はもっと続けて欲しいという意向もあったのですが、新子先生の体調がおもわしくなくなり、美輪さんが神戸新聞の川柳壇選者を務めることになったため、9月で終了となりました。
 そして、それを待っていたかのように、その年の11月東京異動が命じられ、わたしは大阪を去るのです。

3.時実新子の死

 2007年、東京に戻ったわたしは、365日24時間稼働のコールセンターの立ち上げと運営に関わり忙殺される日々が続きます。その中、川柳大学編集部から「森を読む」のページを担当してくれないかと打診がありました。「森を読む」とは、会員自選作品ページ「川柳の森」を読み、句をピックアップして鑑賞文をつけるページです。毎月二人(隔月交代)で1年間担当します。錚々たる先輩たちの句の鑑賞を行うということは怖くもありましたが、そこまで自分が認められたのだという喜びが大きかったのを覚えています。仕事でふらふらになりながらも、時間を見つけては鑑賞を書くためにパソコンに向かいました。
 また、渡辺美輪さんの奔走のおかげで、神戸新聞に連載した「川柳タッグマッチ」が書籍化されることも決定し、連載にプラスした追加原稿を書くことにも追われたのでした。
 
 2007年3月10日。土曜日。
 仕事はお休みで、わたしは朝からウキウキと活動していました。というのも、翌日に近藤真彦(ファンなのです)の武道館コンサートが控えており、着て行く服を準備したり、ファン仲間と連絡を取り合ったりしていたのです。午後になり「そういえば、CAMELの新作が出たらしいから試してみよう」と買いに出て家に戻った時です。パソコンを開くと、2通のメールが届いていました。
 1通目は「近藤真彦コンサート事務局」から。コンサート前に届くリマインドメールです。そしてもう1通は、大西俊和さんからのものでした。件名は「悲しいお知らせ」。
 
 そこで、時実新子が亡くなったと知らされたのです。
 
 わたしは5月号掲載予定の「森を読む」の原稿を書いている途中でした。正式な発表前だったので、書くべきか迷いましたが、知った以上、触れずにいることは出来ず、末尾に新子先生の死について書いたのです。「川柳大学」では、新子先生を「新子学長」とお呼びしていました。

月刊「川柳大学」2007年5月号掲載「森を読む」より

 やがて、新子先生の死は正式に公表され、追悼句や新子先生とのエピソードなどの募集が始まりました。わたしは、呆然としたまま、自分の句を作り、原稿を書き、なんとか穴が空かないように歯を食いしばりました。
 2007年7月号(139号)で曽我六郎編集長から「終刊にあたってのご挨拶」が発表されました。『川柳大学』は新子一代誌である、ということは新子先生も自ら仰っていたことであり、このような日はいつかは必ず来るとわかっていたことでもありました。
 わたしにとっての最後の「森を読む」はこのように締めくくっています。

月刊「川柳大学」2007年7月号「森を読む」より

 2007年8月号(140号)最終号、わたしは初めて「川柳の森」のフロントページに句が掲載されました。

月刊「川柳大学」2007年8月号「川柳の森」より

 そしてわたしたちの『川柳大学』は幕を下ろしたのです。
 
時実新子追悼句>
紫煙くゆらせ声なき声を聞く明日 徳道かづみ

【つづく】

#川柳 #川柳大学 #時実新子 #徳道かづみ

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