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「しろい仔犬。ひきょうなぼく。」


この文章は、
小説「つくね小隊、応答せよ、」
のあとがきです。
上記の小説並みのグロテスクなあとがきとなっております。










服飾デザイナーの母の帰りは每日遅く、小学校低学年の幼い僕と妹は、古い市営団地の一階の部屋で、いつも腹を鳴らし、母の帰りを待っていた。

腹をすかせて親の帰りを待つという生活以外を知らなかったので、それを普通のことだと思っていたのだけれど、アニメやドラマの中の子どもたちには、夕方にはご飯が出てきて家族でそれを食べていた。
そしてそれは、学校の大多数の家庭も同じで、幼いながらに、
うちは、よそとは違うのだな、と思った。


ある冬、僕らの部屋の一階のベランダの下に、一匹の仔犬が住み着いた。
真っ白で小さくて、おいで、と呼びかけると、笑顔でてこてこ走り寄ってくるかわいい仔犬。
僕と妹はその仔犬に夢中になり、母親が帰ってくるまで、内緒で家に入れ、いりこや、鰹節をあげたり、布団の中にいれて一緒に寝たりした。
そして僕たち兄妹は、その仔犬に、「しろ」と名付け、かわいがった。

いつも、学校から僕と妹が帰ってくると、しろは尻尾も舌もちぎれんばかりに振りながら、走り寄ってきて、好意を全身で表現する。

母親に甘えることができない僕ら兄妹の、心のなかの少しひんやりした場所に、しろは尻尾を振りながら幸せそうにちょこんと座り、その場所をじっくりと暖めてくれる。しろは小さかったけれど、存在は、幼い兄妹にとっては、とてもとても大きかった。



ある夜。
買い物に行った帰り、母親と妹と三人で家に帰ってきた。するとベランダの下に、しろの影が見える。
母親も、しろの事は知っていたので(家に入れていることは知らない)家族三人で、しろ、と名前を呼んだ。
すると、しろは、いつものようにとてもうれしそうに尻尾をぶんぶんと振りながら近寄って来る。
暗闇の中、走り寄ってくるしろの首元には、赤いチューリップが巻かれているように見えた。

近所の女の子か誰かが、赤いチューリップで首輪を作って、巻いてあげたのだと、そう思った。
そして、しろは、僕らに走り寄ってきて、
「けんっ…!けんっ…!」と尻尾を振りながら、吠えた。


いつもは、甲高い声で、元気よく、
「ぎゃんぎゃん!」と吠えるのに、様子がおかしい。その鳴き声は、けん!けん!という鳴き声は、息の大量に漏れる、咳のような鳴き声だった。

首に巻き付けられたチューリップが苦しくて、息ができないのだろう、と僕は思った。団地の一階の、ブリキの郵便受けが並んだところではずしてやろうと、その灯りの下で待った。無機質な蛍光灯のあかりがちかちかと瞬いている。蛾が集まり、灯りに何度もぶつかり、飛んでいる。しろが足元に来て、僕はしゃがんで、巻きつけられたものをとってやろうとする。
しろが、僕を見上げる。
僕は、とっさに、後退りして、しろから離れるように立ち上がった。しろは首をかしげ、尻尾をいつものように振り、僕の足にすり寄ってくる。僕はもう一歩あとずさった。しろのその首元に、チューリップはなかった。

しろの喉の肉が裂け、喉の骨や声帯が見え、裂かれた肉が垂れ下がり、首も胸も血まみれだった。
真っ赤なチューリップは、しろの裂けた喉の肉だった。

僕はその光景に言葉を失い、固まった。
他の野犬にやられたのか、交通事故にあったのか、地域住民がやったのかわからない。
けれど、しろは何事もないかのように嬉しそうに尻尾を振り、

「けんっ…! けんっ…!」

と、鳴く。


僕は怖いながらも、おそるおそるしゃがみ、しろに触れようとした。

「触ったら病気がうつるっ!!!!!」

背後の母親が、すごい剣幕でそう叫んだ。
素手で血液に触れれば、何らかの感染症などを発症する可能性は確かにある。
けれど、そんなことなど何も知らない僕が、「病気がうつる」と言われてイメージしたのは、しろに触れば自分も同じように喉が裂けるという様子だった。

僕は母親の剣幕と、そのイメージが怖くて、また後ずさりして、手をひっこめた。
しろの様子に気づいた妹は泣き始めた。
母親は慌てて僕と妹の手をひき、玄関の鍵を開けて、家に入れた。
しろは、おいかけっこをしていると思ったのか、嬉しそうについて来る。
僕は玄関の隙間から、嬉しそうに走りよってくるしろを、ちらりと見た。
しろは家に入ろうとして、母親は玄関の扉を勢いよく閉じた。古い団地特有の頑丈な冷たい鉄の扉。その鉄の扉が勢いよく閉じられ、施錠の音が、夜の団地の階段に大きく響いた。

真っ暗な玄関、妹のすすり泣く声。
鉄の冷たい玄関扉の向こうでは、しろが鳴いている。

僕は靴を脱がずに立ち尽くす。
そして、母親に訊いた。

「ねえ、病院…連れていけん…っちゃろか…」

すると母親が言い放つ。

「そげん金がどこにあるとね!」

「…じゃあ包帯ば、巻く」

「そげんことしても助からん。野良犬やけん仕方ないと。あれがあの子の運命たい」

でも、なにもしてあげないのはかわいそうだと思った僕は、鍵を開けて外に出ようとする。
すると、母親はもう一度勢いよく鍵を締めてドアチェーンを掛け、玄関扉を何度も叩いて言った。

「勝手に出るな!病気がうつるって言いよろうが!小学生にもなって、お前は日本語もわからんとや!」

僕は母親の剣幕に驚き、泣きながら部屋へゆく。部屋では妹も泣いていた。
母親が怖くて、病気がうつるのが怖くて、今までかわいがっていた仔犬を、見捨てた。
いろいろなことがかなしくて、泣いた。
そして思った。






ぼくは、ひどいなあ


ぼくは、ひきょうなやつなんだなあ





咳をするような鳴き声で、不安そうにしろは一晩中鳴き続け、僕は、その声が、聞こえないふりをした。

翌朝、玄関を開けてみると、しろはおらず、灰色の冷たいコンクリートに、乾いた血の痕だけが残っていた。
どこかに行ったのか、誰かがつれて行ったのか、保健所が引き取りにきたのかわからない。とにかく、しろは消えていた。

あの日、僕が自分自身にしっかりと貼り付けたラベルを、未だに剥がせない。
その剥がし方を、僕は知らない。





「つくね小隊、応答せよ、」には、早太郎という白い犬が出てくる。

早太郎は長野の光前寺の犬で、村の娘を食い殺す狒々を退治するために、静岡の見付天神社にて、三匹の狒々と戦った。

早太郎のことを書いていた時、遠い記憶のあの日のことを思い出した。
僕を頼ってきた血だらけのしろ。
それを見捨てた僕。

早太郎は傷だらけで、血だらけで、立つことすらやっとの状態でも、無言で狒々に立ち向かい続けた。
もしあの日、僕が母親の言いつけや、しろの病気がうつるという恐怖に打ち勝って、しろに手を差し伸べていたら…。
その姿が、早太郎なのだと、そう思う。
大きな恐怖を前にしても、歩を進める勇気。
僕は早太郎のようには、なれなかった。
そんなふうに思う。

早太郎が戦い抜くシーンに似たシーンが、偶然にも阿波狸合戦のほうにもあった。
金長を守ろうとして、四匹の津田の四天王と戦い抜いた狸の大鷹も、血だらけになりながら、戦い抜いた。大鷹の最後の姿は、全身が鋼の刃で包まれた白い狼だった。

どうやら僕は、自分の持っていない勇気や、他者を守るこころを、白く力強い犬に重ねるらしい。

同小説の中で、最後まで生存して「しまった」渡邉道雄は、特殊な家庭環境で育った。
唯一の家族である祖母が亡くなり、ひとりで生活していたが、自分自身に貼り付けた「自分は不要だ」というラベルを剥がせず、戦場に行って死ぬということを選んだ。


たぶん、貼り付けたラベルは、剥がせないものなのだ。
そう簡単に、人が考えを改め、ラベルを剥がせるのであれば、世の中のすべての戦争は終わり、すべての問題は即座に解決し、すべての宗教はなくなっている。
はずだから。
だから、人は、ラベルを剥がせない。
じゃあ、人は変われないのか。いや、剥がせないからそれでずっとそのまま、というわけでも、ないと思う。


清水や仲村や花石や摩理や寿郎や現地の男性やマツや清水の母は、渡邉のラベルの上に、別のラベルを貼り付けた。
そして、渡邉は、生かされた。

ラベルを剥がせなかったとしても、新しいラベルを貼ることは、できる。

とてもざっくりいうと、「つくね小隊、応答せよ、」は、そういう小説なのかもしれない。

苦しみは、自分自身のものだから、それを他人がどうともできるものでもない。
けれど、その他人にしかできないこともたくさんある。
たくさんの人との関わりのなかで、織物のようにあなたがつくられる。
いびつで穴が空いて、左右非対称かもしれないけれど、それがあなた。


「つくね小隊、応答せよ、」

お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

たたかう、いびつで穴だらけのあなたへ、書きました。

そう、あなたです。









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