育児休業を思い立つまで(前編)

妻がフィリピン出身のフィリピン人で、日本語はまだできません。日常生活では、英語と簡単なタガログ語と簡単な日本語で会話しています。妊娠がわかったとき、さて、まだ日本語ができない妻がこれから出産まで、さらには出産してから、どのようにサポートして行くのがよいかを考えました。

産婦人科での検診で先生が英語を話してくれるだろうか。先生が話せないなら私が通訳してあげないといけないけど医学用語が分るだろうか。初めてのお産への不安は当然のことですし、そうでなくても周りにまだ親しい友達もおらず毎日退屈に私の帰りを待っている生活なのに、これで妊娠からくる不安がストレスになってしまうのはヤバいだろう。

では慣れ親しんだフィリピンで出産する? 医療のレベルや環境を考えるととてもその気にはなれません。フィリピンから家族を呼ぶ?例えばフィリピンからお母さんに来てもらえば不安は軽減できるでしょう。でもそれは家の中でのことだけで、検診の通訳をしてもらえるわけでなし、もし緊急の事態でも日本語ができないなら産婦人科へ電話をかけることもできないし、タクシーを呼ぶこともできないし。

もうひとつ、親父のこと

妊娠がわかる直前のことです。親父が脳梗塞で倒れました。

転勤で地元を離れて直ぐに、パーキンソン病やら認知症やら患っていた祖母が亡くなって、父は悪性リンパ腫やら閉鎖性動脈硬化症やらを長いこと患っていて、職場には早く地元に戻らせてほしいと散々希望を出していたけれど丸6年、7年目も帰れないまま親父が倒れ、まず今晩この数日を生きられるかどうか、生き延びたけれど左脳をやられて言葉も話せなくなり身体も動かず、父の目の奥のかすかな意思らしきものを信じて回復を待つしかない、それが親父が倒れた1月20日から1月末のことでした。

もう仕事を辞めて地元に戻ろうと思いました。転勤で戻れないなら、もう辞めて帰ろうと。老いた母ひとりに父の世話を任せてられません。この歳になって、妻が妊娠していて、そのタイミングで仕事を辞めてやっていけるのかなんて全く自信はありませんが、父母の面倒をみずに済ませるという選択肢は、その時の私にはありませんでした。

父が倒れて1週間は休みをとって実家に戻り、次に仕事に出た時にはもう上司に「2月のアタマの人事異動で地元に戻れなかったら、辞めて帰ります」と伝えました。

最初の決断ともうひとつの想定外

妊娠した妻のサポートをする。
倒れた父と、父の世話をする母を支える。

これを両立するために「仕事を辞めて妻を連れて地元へ戻り、父母の面倒をみながら仕事を探し、母の助けを借りて出産に備える」というのが、私の最初の決断でした。年度末まで2ヶ月ほど。職場には迷惑をかけるけれど先延ばしにはしてられないなぁと段取りしかかったところで、想定外の事態が起こりました。

実家は小さな、もう長いこと住んであちこち古くなった借家だったのですが、昨年の夏頃だったか、大家に立ち退きを相談されたのです。確かに耐震という点ではもうかなり怪しげでしたし、かと言ってこれから手を加えて補修するにはもう古すぎましたし、そら仕方がないわなぁという気はしましたが、父も母もその時は、すぐのすぐにはどうにもならないのでそのつもりでこちらも準備を考えます、くらいの返事しかしてなかったそうです。

それが親父が倒れてすぐの週末だったか「2月いっぱいで立ち退いてください、こちらにも都合がありますので。立ち退き料20万ね」と突然立ち退きを宣告されたのです。いくらなんでも急だしそもそもそのような申し出が法律やら法令やら慣例やらに照らして認められるんかっちゅう話ですが、母はもう「父が倒れてこんな状況なのに平気でそんな通告をしてくる大家の世話にはなりたくない」と、2月末での立ち退きを受け入れたのでした。

さて、仕事を辞めてひとまず実家に帰るつもりが、帰る家がなくなってしまいました。

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