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世界遺産になる前のちょっと昔の世界遺産の旅

みなさんは世界遺産を好きでしょうか?私は好きです。
ヨーロッパに行けば世界遺産の教会を訪れるし、ニューヨークに行けばアメリカの歴史に興味がなくても自由の女神を見に行くと思います。世界遺産の定義は


地球の生成と人類の歴史によって生み出され、過去から現在へと引き継がれてきたかけがえのない宝物です。現在を生きる世界中の人びとが過去から引継ぎ、未来へと伝えていかなければならない人類共通の遺産です

とありますが、旅行会社やメディアに利用され、旅行に出かければ必ず赴くように構造化されているような気もします。そこで、気になるのが世界遺産という固定観念が生まれる以前、人々はどのような感情を抱いて遺産に向き合っていたのでしょうか? この連載では、世界遺産になる前のちょっと昔の世界遺産を見ていきたいと思います。

1回目:タージ・マハル 英語名:Taj Mahal 1653年完成 世界遺産登録1983年
第1回目はインド・イスラム建築の最高傑作であるタージ・マハルです。タージ・マハルはムガル王朝の王であるシャー・ジャハンが妻ムムターズ・マハルのために作った墓廊です。1632年に造営が開始され、常時2万人の作業員が投じられても、完成まで約20年の月日を必要としました。タージ・マハルは王宮のように見えますが、廟所であることは有名だと思います。王の自身の墓でなく、一人の皇妃のためにここまで大規模な廟所は世界的にも珍しく、その経緯もなかなかロマンティックです。ちなみに、タージ・マハルの意味はムムターズ・マハルからムムが取れたものなので、そのままムムターズ・マハルを指す言葉です(元々のムムターズ・マハルは後宮に選ばれた女という意味)。

(ムムターズ・マハル)

そのようなタージ・マハルはヨーロッパに広がったのは案外早く、1665年にはパリの旅行者ジャン・バティスト(Jean-Baptiste Tavernier)が次のように伝えています。

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タージ・マハールの建設以来、この建物は文化と地理を超えた賞賛の源であり、個人的かつ感情的な気持ちが記念碑というものの学問的評定を一貫して曇らせている。
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最初らへんの旅行者であるジャン・バティストはかなりの評価をしていますね。ジャン・バティストはフランス人ですが、1664年にはイギリス東インド会社がインドに進出しています。タージマハルの完成とほぼ同時期にヨーロッパには知れ渡っていたことでしょう。

しかし、歴史は残酷なもので、1803年頃までにはイギリス東インド会社によりインド中から多くの金目の物が剥奪されていました。タージマハルもその例外でなく、存在していた純金の装飾などは削がられたそうです。そのイギリスの強欲ぶりに耐えられず、ムガル王朝はインド人とともに大きな反乱を起こしましたが、反乱軍はイギリス軍に鎮圧され、1878年にはイギリス・インド帝国が建国されます。

さて、このような歴史を持つタージマハルですが、その後の旅人にはどのような印象を与えたのでしょうか? 1845年にイギリスで刊行された『Tavel India』には次のように記載されています(かなり意訳)。

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インドの最も美しい建物であるタージマハルはまさにダイヤモンドでした。大理石の白さは磨かれた銀の城のように見える。高さ120フィートの4つの塔に囲まれた堂々としたドームであり、素晴らしい装飾が完全な状態にあります。ただし、1803年の地震によって引き起こされたいくつかの割れ目があり、セメントで慎重に修復されています。私たちはモザイクで装飾された高層のアーチ形の門を外面に設置しました。この宮殿は赤い砂岩の高い壁に4つの青銅の扉があり、四隅には砦があります。タージマハルを訪れた旅行者には、さらに美しい巨大な第二の門があり、高い壁に囲まれた庭につながっています。大理石の盆地、噴水、花壇がある道は、大理石が広がるタージマハルまで導いています。庭はいつも香り豊かな花で満たされており、永遠の春を代表することを意図しています。
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この年代に一番近い写真がこちらです。1858年頃と1860年頃だと思われます(簡単に色をつけています)。


続いて、1863年から1864年頃の写真を2枚。


その後インドの反乱時に、英国の兵士と政府職員によってタージマハルの一部が破壊されたそうです。なので、上記の写真はかなりオリジナルに近い状態だと思われます。
1905年頃に『India of To-Day』という新しいインド旅行記が刊行されました。その本の中ではこのような記述をされています(意訳)。

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間違いなく、タージは最も美しいです。世界の霊廟、そして人間によって創られた最も美しい建物です。
荘厳さや崇拝を促すものではありませんが、繊細で優雅な美しさの印象で、優雅さ、さらには優美さがあります。これこそが「永遠の愛」の対象であった女性の霊廟です。
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まぁ、やはりべた褒めですね。『India of To-Day』で見たタージ・マハルは次のような姿をしていました。

(1895年頃の写真)

(『India of To-Day』で使われた挿絵)

(ジャスミンの塔から見たタージ・マハル)

この時点でかなり整えられていますが、その後、イギリス人のジョージ・カーゾンにより、1908年から大々的な修理が行われ現在の姿になります。

日本ではいつ頃タージマハルに訪れるようになったのかはわかりませんが、1800年頃には詳細な世界地図を所有していましたので、その頃には存在くらいは知っていたかもしれません。1886(明治19)年6月2日に刊行された『萬國名所圖繪六』にははっきりとタージマハルが紹介されています(意訳)。

(『萬國名所圖繪六』)

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アグラ府之記
位置ガンデスの一源河、ジヤムナの右岸に経営す。人口十万二千余、これまた沃地の盛都である。市街広潤清楚にて商業により繁晶す。この府内で見るべきは、タジマハルていう寺院にて、これは千七百年代にサーゼハンという王が愛姫のために建てた。その全体の材料は赤色美質の石で、その要所は白色の美石をもって装飾されている。宮室は多く、うち中央のもの絶美にて、ある石柱の一本は高さ75メートル、直径10メートルあまりで透明玉に彩られ、周知は赤白桃色の美石を持って各々の花を造り情感する。また庭園が設けてあり、佳木芳草を植え、地中は噴水二ヶ所あり、奇魚を放ちて観を添え、その内外の絶美を、その構造の巧みさを、逐一筆に残させる。ただし、この地は千八百零八年の十二月英国がこれを攻略し、鎮守支店堂を置き、かつこの寺院へ四十五名の官士を派出し保護をなす。
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というわけで、タージマハルは世界遺産になる前から旅行者に好評だったようです。

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