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本当は頭のいい子でいてほしかった。わたしの心の奥にあった偏見と思い込みについて

中学に入ってからめっきり絵を描かなくなった息子に
家にいる時間に絵を描いてみたら?とすすめてみたら
また描くようになりました。

さて、前回の記事で息子が不登校になったいきさつを書きました。
その中で、家庭教師をお願いしたときの葛藤と、大きな思い込みに氣付いたことに触れました。

この記事では、そのときに氣付いた偏見とも言うべき思い込みと強固な執着が何だったのかについて書いています。
 
記事の中に、乱暴に感じさせる表現もあるかもしれませんが、当時感じたことを正直に書かせていただいています。


親のわたしが言うのも何ですが
息子は幼い頃から愛されキャラ的な存在で、

小学校入学早々の懇談で担任の先生から

「今どき珍しい、天使のようなピュアなお子さんですね」

と言っていただいたり、

小学校高学年になっても担任の先生から

「息子さんには、授業や成績などからは見えてこない才能を感じます。苦手なところを克服しようするよりも、得意なことを伸ばしていったほうが、息子さんのためになると思います。」

そんなふうに言っていただいたこともありました。
小学校の先生からこんな言葉をいただけるとは思ってもいなくて、当時嬉しかったのを覚えています。


そんなわけで、ただの親バカなのですけど

わたしも息子には何か抗えないような魅力を感じていたので、
家庭学習を強要したり、苦手なことを無理強いしたりせずに見守ってきました。

このまま育ってくれたらいいな…と。


けれど、正直に言うと

いずれ
じぶんから「勉強しよう」と思ってくれるだろう

という期待もあったのです。


でも、そんな日は待てど暮らせど来ませんでした(笑)

見守る、なんて言ってはいるけど
内心は勉強してほしかった。
普通に高校だって行ってほしかった。

それどころか、高専とか、頭のいい人が行く学校に行ってほしいとすら思っていました。

実際に、高専のオープンキャンパスに息子を連れて行ったこともあったくらいに。

それで、息子をどうにかしたくて教育者の友人に家庭教師をお願いするに至ったのでした。
それはもう、最後の望みの綱のような思いでした。

けれど、息子は次第に家庭教師を拒否するようになりました。
その様子を見ているのは本当に苦しかった。

これ以上続けるのは、息子にとっても友人にとってもいいことは何もない
というところまで事態が進んだところで、


家庭教師をやめることによって
息子は高校すら行けないかもしれない状況である

という現実を直視せねばならなくなりました。
でも、まったく受け容れることができなかったのです。


息子に療育をすすめられた頃や自閉症スペクトラムと診断された頃のような苦しさを再び味わうことになろうとは思ってもみませんでした。

息子の現実を直視できない苦しさを。



この原因は決して息子にあるのではなく、
わたしの内面に、わたしを苦しくさせる何かがあるわけで。

息子がわたしを苦しませているのではなく、
わたしの内面にその何かがあるからわたしは苦しいと感じているに過ぎないのです。


その何か、とは
ほとんどが思い込みや執着。


息子のことで改めてじぶんに向き合って氣付いたのは


わたしがいかに息子に対して

『デキる子』
『頭のいい子』

で居てくれることに執着しているか、でした。

その執着のさらに奥にあったのは、強烈な思い込みでした。

当時、わたしの心の奥から出てきた言葉をそのまま書きます。




「勉強できないヤツは人間のクズ」




わたしは人の価値を『頭の良し悪し』ではかっていたのです。



中学時代のわたしは猛烈に勉強しました。
それでも、やっと学年のトップクラスに入れるかどうかくらいのレベルで、
後に東大京大に行くような子たちにはぜんぜん敵いませんでした。

そんなわたしは劣等感から、じぶんよりもデキない子のことをひそかに見下していたのです。

とくに、ぜんぜん授業についてこれないような子のことは『クズ』くらいに思ってました。


「勉強できないヤツは人間のクズ」


そういう偏見を持っていたのです。

そしてね
この偏見を持っていることが、わたし自身の首をも絞めていたわけですよ。


だって、勉強する目的も目標も持てなかったわたしがそこまで必死に勉強したのはほかでもなく、


もしも勉強がデキなければじぶんがクズ落ちするから

だったのですから。


クズにはなりたくない!
その思いで必死に勉強していたのだということに
数十年の時を経て、氣付いたのでした。


本当はわたしも息子同様に

行きたい高校もなかったし、
やりたいこともわからなかったし
どうして高校に行かなきゃならないのかわからなかった。

それなのに、
じぶんの持っている偏見のせいで

できるだけレベルの高い高校に入らないと!

って、思い込んでいたのです。



勉強した甲斐あって、それなりの高校には入れました。
でも高校に入って待っていたのは、当たり前だけど

ほとんど同じ学力レベルのクラスメイトばかり

という現実。


見下しの対象になる相手もいない
ちょっと氣を抜くとすぐに抜かれる
高校でやりたいこともない


そんな状況下でわたしは力尽き、
クズ落ちする道を選びました。


高校デビューってやつですかね(笑)
まぁ、お嬢さん学校のデビューなんてかわいいものでしたが。

高校1年の担任の先生に言われましたよ。
「入試の成績はよかったのに、なんでオマエはこんなんなっちゃったんだ!」

って (笑)


こんなわたしの偏見と思い込みが心の奥で連綿と続き、息子にまで影響を及ぼしていたのです。


デキる子でいてほしいと執着していたことも

高校に行けないかもしれない息子を受け容れられなかったのも

「勉強できないヤツは人間のクズ」

すなわち

「勉強できない息子はクズ」


この思い込みがもとになっていました。


本当は勉強が苦手だった過去のわたし
デキない子を見下していたわたし
それを映し鏡になって見せてくれていた息子


それらをよくよく感じて受け容れていきました。
そしてようやく手放すことができたのです。


それ以来、息子のテストの点がどうであれ、成績がどうであれ、氣にならなくなりました。

勉強ができようができまいが、それが人としての存在価値とは何の関係もない

それがやっと腑に落ちて、わたし自身が生きるのがラクになったのです。


だって
賢いフリしたり、デキる人になろうと頑張らなくてよくなったから。

じぶんで創った『クズ落ちの恐怖』から、ようやく解放されたのです。


以来、じぶんに対しても他人に対しても
スキル・スペック・ステータスは、おおよそどうでもよくなりました。



もしかすると、わが子の成績や進学先に一喜一憂する親心には、わたしのように極端なものではないにせよ、何かしらの思い込みや執着があるのかもしれません。

もしも、お子さんの学校や学習、進学に関して何らかの苦しさを感じているのなら、

一度、ご自身の内面に向き合ってみるとよいかもしれません。


苦しさのもとになっている思い込みや執着は
お子さんにではなく、親であるあなたの内側にあるのです。

実はもう一つ、
最近になって大きな偏見に氣付きました。

成績のことは氣にならなくなったけれど、
高校に行かないかもしれない状況には、まだ引っかかるものがあったのです。

前回の記事で触れた『相談会』の件とも関係のあることなので、
次回はそのことを書こうと思います。

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