無題3

言葉はさんかく こころは四角

十五階で降りた。はずだった。

「暗闇」が目の前に広がっている。黴臭く、背筋がヒヤリとする。そこに長時間居座ることを身体が拒絶しているかのようだ。エレベーターのボタンを押してみるが、動く気配がない。壁伝いに廊下を歩いていこうにも、一向に暗さに目が慣れない。自分の桿体細胞が全く機能していないのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。いくら虹彩を開いても光を感じ取ることが出来ない、正真正銘の「暗闇」だ。

途端に、内側から滲み出る恐怖にも似た何かに包み込まれるような感覚に襲われ、一先ずその場に座り込んだ。ゆっくりと深呼吸をしながら目を閉じると、脳内には相変わらず思考の断片が撒き散らされている。自分を落ち着かせるために、それらをいつものように強引に枠の中に押し込み始める。枠の中に寄せ集めれば、断片たちも何か意味を持ち始めるかもしれない、という不安で滲んだ期待と共に。


◇▲◇


私たちが目で見ていると思っている残りの部分は、脳の内部から来ている(*1)。

自意識製の知恵の輪で遊んでいる時に読んだ『心の社会』の中で、アメリカのコンピュータ科学者であるM. ミンスキーが述べていた。成る程確かに、ある対象を純粋な対象としてではなく、脳内のパズルに嵌め込むピースとして認識してしまうことは日常茶飯事だ。もしかすると、対象を純粋な対象として見ることが出来たのは、母親の産道を這い出してから、たったの数ヶ月程度かもしれない。

生まれてからというもの、色々なものを見たり聞いたりしながら、一つ一つの概念を獲得していくにつれて、私たちは目の前にはない何かを見るようになった。おそらくそれが、人間を人間たらしめてきた行為、「想像」の片鱗なのだろう。

人間と想像の繋がりは、「人間とは何か」という疑問を抱けば抱くほど、より強固になっていく。イスラエルの歴史学者であるY. N. ハラリは、『サピエンス全史』の中で、

私たちとチンパンジーとの真の違いは、多数の個体や家族、集団を結びつける神話という接着剤だ(*2)。

と、想像によって生み出された神話のような虚構が、集団としてのホモ・サピエンスの進化を促してきたことを強調している。

チンパンジー繋がりで言えば、チンパンジーの心の研究を行う「アイ・プロジェクト」で馴染み深い松沢哲郎も、

今ここの世界を生きているから、チンパンジーは絶望しない。... それに対して人間は容易に絶望してしまう。でも、絶望するのと同じ能力、その未来を想像するという能力があるから、人間は希望をもてる。どんな過酷な状況のなかでも、希望をもてる。人間とは何か。それは想像するちから。想像するちからを駆使して、希望をもてるのが人間だと思う(*3)。

と、『想像するちから:チンパンジーが教えてくれた人間の心』で述べている。

想像が如何に日々の生活に根付いているのかは、自身を取り巻く「人間社会」を見渡せば一目瞭然だろう。

不均衡動学理論を体系化した日本の経済学者である岩井克人は、その著作『経済学の宇宙』の中で、普段私たちが当たり前のように使用している言語・法・貨幣を、

人間の脳と脳の「間」、すなわち「社会」の中に存在しているのです(*4)。

と、小石のような「物理的実在」とも、血液のような「生物的実在」とも異なる、想像に根差した「社会的実在」として定義しており、

われわれ人間は、この「社会的実在」の媒介によって「人間社会」を築き上げ、まさに「人間」として他の生物から自らを断絶することができたのです(*5)。

と述べている。

岩井が説明するように、言語の媒介は「同じ人間としての関係性」を、法の媒介は「同じ権利義務の主体としての関係性」を、貨幣の媒介は「同じ交換価値の所有者としての関係性」を、其々私たちに付与している。(*6)

そして、私たちは「社会的実在」という想像によって、自らの頭で物事を考え、他人と共存しながら自己の目的を追求し、好きな時に好きな場所で好きな相手と交換が出来るようになった。

「人間社会」の根幹を成している「社会的実在」無しでは、私たち人間は多くの関係性を失い、酷く閉じられた集団になってしまうかもしれない。だからこそ岩井は「社会的実在」を「『自由』の条件」(*7)と呼ぶのだろう。

しかしながら岩井は、

個人にとっての「自由」の条件は、同時に、人間社会にとっては「危機」の条件でもあるのです(*8)。

と、私たちが手にした自由には二面性があると述べている。

岩井が体系化した理論の中には、「蚊柱的な安定性」という「一匹一匹の蚊の不規則な動きがお互いの効果を打ち消しあい平均化された結果(*9)」としての安定性を指す言葉が出てくるが、まさに「自由」が不安定性という「危機」を常に内包しているということを岩井は示唆している。

そして岩井によれば、想像という自由なものに根ざした「社会的実在」は、ポピュリズム、全体主義、インフレーションなど、千姿万態の「危機」として私たちの前に現れる(*10)。それらを前にすると私たちは、本能的に「社会的実在」を手にする前に享受していた閉じられた集団の中での安定性を求めてしまうが、自由の中で自由と混ざり合って生きてきた私たちが、自由を自らと切り離すことなど出来ないだろう。自由の生んだ多様性が不可逆的な時間の向きとなって、「蚊柱的な安定性」を育んできたのだから。

想像という自由に内包されている危機の発露は、集団としての人間を考えるうえで永遠のテーマなのかもしれない。個人的にではあるが、その恐ろしさを見事に表現しているという点で印象に残っているのは、『金色のガッシュ!!』という漫画の中でのワンシーンだ。

この漫画の大まかなストーリーとしては、千年に一度魔界の王を決めるべく人間界に送り込まれた百人の魔物の子達が、それぞれのパートナーである人間と出会い、最後の一人になるまで共に戦う、というものである。

この百人の魔物の子の中には、キャンチョメという「変化」を得意とする子がいる。彼は所謂落ちこぼれポジションであり、相手を直接的に攻撃する呪文はほぼ覚えない。

ただ物語の最終局面に入る頃に相手に幻覚を見せるという呪文を覚える。そしてこの漫画の世界ではその能力には特別な意味合いがある。何故なら、この世界では魔物の子が呪文を発動するためにはパートナーである人間の心の力が必要であり、エネルギーの供給源であるパートナーの人間の心に直接影響を及ぼす幻覚は、反則とも呼ぶべき威力を持つからだ。

私が思い出すのは、物語の終盤の戦闘中にその幻覚呪文を使った彼が、自身の仲間に危害を加えられたことで生まれた憎悪を自身の想像と結び付け、残酷な幻覚を使って敵に猛然と襲い掛かるシーンだ。

想像が全て実現する幻覚世界では、彼の憎悪はさながら癌細胞のように想像を媒介に只管増殖し、彼の心を蝕んでいく。まさに想像という「自由」の内包する「危機」の発露だ。そんな危機を救ったのは、パートナーの人間だった。

癌を適切に治療するために必要なのは、存在しない黒胆汁を排出すべく施される瀉血処置や、腫瘍とその近縁を丸ごと刈り取る根治的処置ではないし、健全な細胞まで傷つけてしまうリスクを度外視して薬を投与し続ける処置でもない。求められるのは、原因となる変異遺伝子に直接働きかける処置だ。そしてその処置を正しく実行出来る可能性を保持しているのは、正しく原因を認識しているものであり、それがまさしく「ライオンよりもカバが良い」と信じる心優しいパートナーの人間であった。

顛末を言ってしまえば、パートナーの根底にある「牙に小鳥が止まる」カバ的な力強さが彼の憎悪に直接働きかけ、彼も無事に正気を取り戻すことが出来る。

「危機」の発露について考えたときに思い出されるのがこの場面なのだが、想像という自由を養分に進行する感情の増幅の過程や勢いは、癌細胞を連想させる。

アメリカの微生物学者であるJ. M. ビショップと共に、癌遺伝子が正常細胞に由来することを発見してノーベル賞を受賞したアメリカの科学者であるH. ヴァーマスは、

がん細胞もまた、われわれ自身のゆがんだバージョンだと知ったのだ(*11)

と述べているが、憎悪のような感情を増幅させる想像も私たちの「ゆがんだバージョン」なのではないだろうか。

変異した癌遺伝子が正常な細胞の利用する体内経路を巧みに利用して、私たちが憧れるほどに凄まじい生命力で私たち自身を滅ぼすように、憎悪のような感情も認知革命以降私たちの進化を促してきた想像を利用して、私たち自身を滅ぼしてしまう可能性がある。

また想像の恐ろしさを際立たせているのは、その長所でもあったはずの「拡散性」だ。

癌のような遺伝子の変異は、基本的には遺伝子の物質的な交わりによって拡散するため、物質的経路を絶てば拡散を部分的にコントロール出来ることもある。一方で、想像を媒介に拡散する憎悪のような「癌細胞」は、あらゆる人の交わりによって拡散する非物質的なものであり、容易に取り除いたり出来るものでもない。

「癌細胞」の拡散は人と人が出会うその瞬間から進行する恐れがあるが、その最たる経路が活性化を待つ「癌遺伝子」が散らばっている変異の可能性に満ち溢れた原子スープ、インターネットだ。

「フリーランチはない」という言葉は自制心を思い起こすかのように頻繁に使用される言い回しだが、インターネットにも当てはまるだろうか。
私たちはインターフェースとなる端末さえあれば、集合知とも呼ぶことが出来るインターネットを通じて欲しい情報や物にいつでもアクセス出来る。「クリック一つで何でも手に入る(*12)」と名の知れた歌手にシニカルに歌われるのも頷けるほど気軽なものだ。

またTwitterやFacebookなどによってもたらされるソーシャルネットワークは、私たちを「記号」に変換することで物理的な制約を取っ払い、人の「記号的な交わり」を促進させている。そして私はこの文章を書いている今も、その交わりによって生まれる多様性の恩恵を享受している。

ではインターネットが「ランチ」だとすれば、私たちは何を「対価」として失っているのだろうか。それは個人情報であったり限りある時間であったりするのかもしれないが、総じて言えば、「現実の私たち自身」ということになるだろう。

つまり「実物」と「記号」のウェートが後者に偏ることで、実物が蔑ろにされるということである。そしてその偏りが「癌遺伝子」の活性化や「癌細胞」の拡散を許しているのだ。

そもそも「実物的な交わり」と「記号的な交わり」の違いは、その「距離」にあるのかもしれない。

夏目漱石の著作『行人』の中には、

人から人へ掛け渡す橋はない(*13)

と、漱石自身が翻訳したドイツの諺が出てくる。

人と人との間には常に縮まらない距離があり、静的な存在では在り得ない私たちの間に掛け渡された橋は自然と崩れ去る運命にある。しかしながら、お互いを隔てる距離があったとしても、ドイツの哲学者であるE. フロムがその著書『愛するということ』の中で主張するような愛とも呼ぶべき能動的な感情は、何度でも橋を掛け渡すようにと私たちを駆り立てる。

人と接点を持つということが、互いを害してしまう可能性を認めながらも覚悟を持って距離を縮めようとする勇敢な行為であるならば、記号的な交わりは実物的な交わりには成り得ない。何故なら「記号的な交わり」は、実物と記号との距離が産み出す「情報の非対称性」という壁に自身の実物の肉体を預けてもたれかかるような、「補助輪付きの交わり」だからだ。

私たちは距離を嫌うが、同時に対象と距離を縮めることで自分自身を損ないたくないという相反する思いを抱えている。だからこそ記号によって生まれる「距離」に心地良さすら覚えるのだろう。

では「記号」への偏向が何故「癌」に繋がるのだろうか。おそらくそれは、真空を嫌う自然が空気の侵入を許すように、距離を嫌う私たちが「想像」の侵入を許してしまうからだろう。

私たちは「記号」を前にすると、重なる図形の見えていない部分を脳が自動的に補完するようにその裏側にある「実物」を思い描くが、実物的な交わりなしに正しい実物を思い描くのは不可能に近い。「群盲象を評す」という寓話にもあるように、物事には常に多面性があるということを忘れ正しい実物を描けていると思い上がるのは、酷く愚かな行為だろう。

記号が必然的に帯びる「距離性」は群盲的想像の繁殖を許してしまい、それらによって変異した「癌遺伝子」は勢いを増して増殖する。

そして厄介なことに、どんな正常な細胞のゲノムにも癌遺伝子が負荷されているように、悪意の無い正常な記号にも「癌遺伝子」が負荷されている。何故なら冒頭で述べたように、認識するという行為は常に認識者の期待の影響を受けており、正常な記号の孕む「癌遺伝子」を活性化させるのはその期待だからだ。

つまり人の想像をコントロール出来ない限り、認識の材料を与えるという行為によって散布された「癌遺伝子」の拡散や活性化を止めることは出来ないのだ。

私たちは人間の進化と切り離すことの出来ない「想像」とどのように向き合っていけばいいのだろうか。また「記号」で溢れかえる世界で「実物」とのバランスを保つにはどうすればいいのだろうか。

まず私たちは記号の持つ不完全性を正しく理解するべきだろう。そして何よりも重要なのは、安易に実物を想像してしまう自分自身を疑う、ということだろう。

アメリカの経済学者であるD. カーネマンは、その著書『ファスト&スロー』の中で、

直感的な思考は、ささやかな改善(その大半は年齢によるものだ)を除き、相変わらず自信過剰、極端な予想、計画の錯誤に陥りやすい(*14)。

と、主観的な想像で情報を処理する私たちのファストな「システム1」とも言うべき特性を説明している。

そしてそのエラーを防ぐ手段として、

認知的な地雷原に自分が入り込んでいる徴候を見落とさず、思考をスローダウンさせ、システム2の応援を求めればよい(*15)。

と、スローだが比較的ロジカルな「システム2」に頼る必要性を説く。

またエラー防止という点では、

組織のほうが個人よりも優れている(*16)。

と、直感を制御する階層的な意識決定プロセスの有用性も説いている。

つまり私たちは、脳が叩き出すもっともらしく思える主観的な認識を常に疑い、認識の齟齬に気付くことが出来るような客観性を身に付けようと努め、それが事実なのかどうかを確かめ続けなければならない。

それは宗教的な引力に導かれる中で自然と芽生える好奇心に駆り立てられた西欧の人々が、少しでも事実に近付こうと編み出してきた科学的アプローチにも似た尊い行為だが、同時に途轍もない勇気を必要とする行為でもある。

大事に抱え込んでいる経験と自分を繋いでいた「臍の緒」が、無知さと浅はかさで創られた虚構に過ぎないということを知る瞬間は、身体の一部をもぎ取られるような痛みを伴うだろう。

それでも私たちは、アメリカの詩人であるW. ホイットマンが『song of the open road』で謳い上げたように、私たちを捉える桎梏のような「臍の緒」から私たち自身を解き放たなければならない(*17)。

漱石の著作『彼岸過迄』には、

恐れないのが詩人の特色で、恐れるのが哲人の運命である(*18)。

という台詞が出てくる。そしてそんな漱石によって日本に紹介されたのがホイットマンなのだ。

おそらく漱石が米国の詩人に見出したような勇敢さが、想像の「臍の緒」を切り取って掛け渡した橋の上を自らの足で歩いていきたい、と願う私たちには必要なのだろう。

「想像」とは良い意味でも悪い意味でも私たちを私たちたらしめている。

「ランチ」をご馳走になったのであれば勿論「対価」を支払わなければならないが、自分が何を食べ、何に対して、何を支払っているのか、ということは常に意識しなければならないだろう。

私たちを隔てる記号で造られた「情報の非対称性」という壁は、実物としての存在の重さを預けられるのを待っているかのようにそこに存在している。そして私たちは無意識にその壁にもたれ掛かってしまう。ドアノブを見たら回してしまうように。スイッチを見たら押してしまうように。

それは日本の工学者である渡邊恵太の『溶けるデザイン:ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論』の中で言及されている、アメリカの知覚心理学者J. J. ギブソンによって構築された「環境にある行為の可能性」を示すアフォーダンスという考え方(*19)を反映させたかのような、あまりにも巧妙なデザインだ。

そんな居心地の良さでふやけた実物としての肉体を動かすためには、記号の裏にある実物に近付かせるような、自らを突き動かす強い衝動が必要だ。そしてその衝動になり得るのが好奇心なのだろう。

好奇心を持つということは何かに「引力」を見出すということだ。それは天動説から地動説への、静的な宇宙から動的な宇宙へのパラダイムシフトの契機でもある。ただ実物に向かって歩みを進めれば、そこに留まることを良しとするような甘美な想像に襲われるだろう。天動説を支持するプトレマイオスが、周転円なるものを持ち出して惑星の逆行運動を見事に説明することで、地動説を退けたように。永遠で静的な宇宙を支持するアインシュタインが、一般相対性理論に宇宙定数という想像上の産物を付け加えることで、動的な宇宙(ビッグバンモデル)を退けたように。

おそらく私たちの自己を形作ってきたのは、そんな甘美な想像にも打ち克つような「根源的な引力」だ。日本の哲学者である中村元は『原始仏典』の中で、

自分というのは、他から及んできた力の一つの結び目のようなものです(*20)。

と、他との関わりの中に自己があると述べている。

この考え方を発展させれば、他に見出す引力が強ければ強いほど確固たる自己がその中心に浮かび上がってくる、ということになる。それはマゾヒズムやサディズムのような依存性を引き出す強制的な引力ではなく、私たちの能動性に水をやるような引力だ。

またそこに見出される自己は「結び目」であると同時に「ドーナツの穴」のようなものでもあるだろう。実物としての「我」は存在しないが、他に囲まれた中心には「自己」がある。そして自己を構成する他者を理解することを通じて、確かな自分と出会うのだ。

私たちは元来、宇宙を目的もなく一直線に等速でひた走る天体に過ぎない。それでも何か目的を見出したかのように、楕円軌道を描いたり速度を変えたりすることがあるのは、その道中で引力に出くわすからだ。引力こそ私たちを複雑で味わい深いものにしているエネルギーだ。

そして私たちには、「社会的実在」によって与えられた「自由」がある。多くの「他」に触れる中で引力を感じた時、自ら掛けた橋の上を自らの足で歩いて渡り、その先にある記号の扉をノックすることが出来る。だからこそ私たちは、長く短い人生の中で自分自身を確かめるように何度でも扉を叩くのだろう。

それでも本能的に負担を免れようとする私たちは、扉の前まで辿り着いたことに満足して扉の向こう側から聞こえる音を頼りに「実物」を見出し、引力の糸をそこで断ち切ってしまうかもしれない。だがその扉は、私たちを隔てる壁としてではなく私たちを繋ぐ媒介としてそこに存在しているはずだ。扉の向こう側に何があるのか、それを知りたいと強く思うのであれば、漱石の著作『門』の中で門番が宗助に告げたように、扉が開けられるのを待つのではなく、私たち自身が扉を開けなければならない。

私たちは、日の暮れるまで扉の前で立ち竦みながら「実物」を想像し、自身の無知さに救われる「自由」だけではなく、自ら扉を開いて「実物」に触れ、自身の無知さを嘆き悲しむ「自由」も手にしている。私たちがより強く握り締めているのは、どちらの自由だろうか。私たちが選ぶべきなのは、どちらの自由だろうか。


◇▲◇


ふと目が覚めた。

立ち上がろうとして手を突くと、目を閉じる前には無かった無数の足跡のような汚れが見える。覚えたてのダンスでも練習しているかのような、無秩序な足跡だ。その中には、人の足跡だけではなく、何か動物のような足跡もある。蹄のようにも見えるが、山羊とか羊の類だろうか。

踊るんだよ。音楽の続く限り(*21)

踊るんだよ、と僕も繰り返した。自分に言い聞かせるように。そんなことをしているうちに、隣のエレベーターの扉が開いていることに気付く。この足跡を残した誰かがボタンを押していたのかもしれない。ぼんやりとした頭に促されるまま、エレベーターに乗り込み、一階のボタンを押す。何かに引き寄せられるかのように下降し始める。地上との距離が段々と近付いていく。一階に着いた瞬間、確かな重さを自分の体に感じた。扉は今も目の前にある。





参考文献

岩井克人(2015)『経済学の宇宙』日本経済新聞出版社
カーネマン, D.(2012)『ファスト&スロー 上・下巻』(村井章子訳)早川書房[kindle版]
木島始編(1997)『対訳ホイットマン詩集:アメリカ詩人選(2)』岩波書店
シン, S.(2016)『宇宙創成 上・下巻』新潮社[kindle版]
長沼伸一郎(2016)『経済数学の直感的方法  マクロ経済学編』講談社[kindle版]
中村元(2015)『原始仏典』筑摩書房[kindle版]
夏目漱石(1910)『門』青空文庫[kindle版]
―――(1912)『彼岸過迄』青空文庫[kindle版]
―――(1913)『行人』青空文庫[kindle版]
ハラリ, N. Y. (2016)『サピエンス全史 上下合本版:文明の構造と人類の幸福』河出書房新社[kindle版]
フロム, E.(2017)『愛するということ 新訳版』(鈴木晶訳)紀伊國屋書店[kindle版]
松沢哲郎(2011)『想像するちから:チンパンジーが教えてくれた人間の心』岩波書店
ミンスキー, M.(1990)『心の社会』(安西祐一郎訳)産業図書
ムカジー, S.(2013)『病の皇帝<がん>に挑む 上・下巻』(田中文訳)早川書房[kindle版]
村上春樹(2018)『ダンス・ダンス・ダンス』講談社[kindle版]
雷句誠(2007)『金色のガッシュ!! 31巻』 小学館
渡邊恵太(2016)『溶けるデザイン:ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論』ビー・エヌ・エヌ新社[kindle版]

1 ミンスキー, M.(1990)『心の社会』(安西祐一郎訳)産業図書, 217
2 ハラリ, N. Y. (2016)『サピエンス全史 上下合本版:文明の構造と人類の幸福』河出書房新社[kindle版] Kindleの位置No. 792
3 松沢哲郎(2011)『想像するちから:チンパンジーが教えてくれた人間の心』岩波書店, 182
4 岩井克人(2015)『経済学の宇宙』日本経済新聞出版社, 465
5 岩井『経済学の宇宙』, 457
6 岩井『経済学の宇宙』, 470-471
7 岩井『経済学の宇宙』, 470
8 岩井『経済学の宇宙』, 471
9 岩井『経済学の宇宙』, 143
10 岩井『経済学の宇宙』, 471
11 ムカジー, S.(2013)『病の皇帝<がん>に挑む 下巻』(田中文訳)早川書房[kindle版] Kindleの位置No. 3037 原典は、Harold E. Varmus Banquet Speech, THE NOBEL PRIZE, https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1989/varmus/speech/(参照2019-09-08)
12 ゆず『夢の地図』より
13 夏目漱石(1913)『行人』青空文庫[kindle版] Kindleの位置No. 5683
14 カーネマン, D.(2012)『ファスト&スロー 下巻』(村井章子訳)[kindle版] Kindleの位置No. 4620
15 カーネマン, D.『ファスト&スロー 下巻』 Kindleの位置No. 4626
16 カーネマン, D.『ファスト&スロー 下巻』 Kindleの位置No. 4637
17 木島始編(1997)『対訳ホイットマン詩集:アメリカ詩人選(2)』岩波書店, 74-75
18 夏目漱石(1912)『彼岸過迄』青空文庫[kindle版]Kindleの位置No. 3856
19 渡邊恵太(2016)『溶けるデザイン:ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論』ビー・エヌ・エヌ新社[kindle版]Kindleの位置No. 562
20 中村元(2015)『原始仏典』筑摩書房[kindle版]Kindleの位置No. 2937
21    村上春樹(2018)『ダンス・ダンス・ダンス』講談社[kindle版]Kindleの位置No. 1955


音楽

言葉はさんかく こころは四角 / くるり


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