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猫のいる街

私の職場である川崎日進町には、
(野良)猫がたくさんいる。
猫を飼った経験がなく、
周囲にも猫がいる環境で育ったわけではなく、
猫事情に詳しくないボクでが、
この街で覚えたことは、
「飼い主がいなく不妊手術をした猫は
耳カットをしているんだよ」
ということ。
それで、猫を見ると、
まず、耳をチェックするようになり、
この街の猫は、皆「(野良)猫」だと
いうことを学んだ。

そして、この街の(野良)猫は、
ほぼみんな太っちょだ。
飼い主はいないけれど、
地域にたくさんある簡易宿泊所に
泊まって(住んで)いるおじさんたちが、
自分の子供のように可愛がり、
餌をあげているからだ。

時たま、簡易宿泊所の部屋に
窓から入っていく(野良)猫がいたり、
もはや、この街の住人だ。

おじさんたちは、
家族や親戚と疎遠の方が多く、
また、この街でも
「つるむ」ことは殆どない。
そんなおじさんたちの
本当に優しい目を見れるのは、
(野良)猫と一緒にいる時だ。
まさしく、それは、
家族に対する物そのものであるように感じる。
そんな愛情表現に対して、
(野良)猫は、それをわかっているのか、
わかっていないのか?そこはちょっと分からない。

簡易宿泊所のおじさんたちは、
お酒を飲んでばかりとか、だらしがないからとか、、
色々な言われ方をする。
ただ、おじさんと(野良)猫の交流を見ていると、
言われているおじさん像と違うものを感じる。

この「優しさ」って何から発生するのだろうか?
「家族」と思っているから、優しいのか?

いやいや、違うと思う。
人はもともとは、「優しい生き物」なのではないか。
「優しさ」は、持って生まれたものではないかと思う。
「人は誰かに優しくしたい。」
これは、本能の一つのではないか?

「優しさ」を自由に発揮できないのはなぜ?
いつから、「敵」「味方」という概念を
作ってしまったの?

おじさんと(野良)猫の交流をみながら
ふと考えてみた。





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