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〝かえるくん〟人形から紡がれた実践に出会う〜臨床育児保育研究会レポート〜

昨晩は、オンラインで開催された臨床育児保育研究会に参加させていただきました。

幼稚園に通うある女の子が、前年度に着ていたエプロンの布地を見に纏う〝かえるくん〟の人形をお家で作り幼稚園にもってきた(しばらくは引き出しにしまっており、そこに先生の素敵な感性が動いた)ところから展開する実践。やがて他の子どもたちも加わって温かな関わり合いの中で劇作り遊びが生まれ、一般的には「課題のある子」として捉えられてしまいそうな男の子が劇場づくりの過程で活躍していく様子について、当時の状況も含めながらお話をうかがうことができました。「プロジェクト」などと銘打って行われたわけではない、良い意味で〝日常〟の豊かな響き合いの軌跡。私も心がほっこりしたとともに、現場で働く保育者の1人として子どもたちと関わり合う日々を楽しむエネルギーをいただくことができました。こちらの実践は2008年に発売された『現代と保育』72号にも掲載されています。

咄嗟の働きかけから展開する関わり合い〜「ブリコラージュ」的な働きかけに宿る「生気情動」〜

研究会を通して考えたことは大きく3点。

まずは即応性が求められる現場で生まれる、「ブリコラージュ」的な働きかけに宿る「生気情動」的なやり取りの大切さについて。〝かえるくん〟が身に纏っていたエプロンを掛けるためのハンガーを作った先生。「(モールを曲げて作っただけなので)大したものではありませんが…」という旨の言葉を報告の中でおっしゃっていましたが、私は〝かえるくん〟を作って来た子の姿を見て「(昨年度からどこか頑張り過ぎているところがあった)この子の心を覆うものを脱がせてあげたい」と感じ、その場にあったものを使って「ブリコラージュ」的に(保育実践の「ブリコラージュ」性について、『現代と保育』72号の巻頭論文に記載がありました)ハンガーを作ったことが大きな意味を持つと感じました。

ともすれば、判断を一旦留保して「完璧なハンガーを用意しなければ!」とクオリティの高いハンガー、なんならクローゼット的なものまで用意することだって出来たはずです。もちろんそれらの選択肢をとった場合は今回とはまた違った形で関わりが展開していたとは思いますが、こうした咄嗟の機微と、「プログラム」的な価値観からは捨象されてしまいがちな、〝かえるくん〟を作ってきた子の姿を通して生まれたホットな情動を契機として生まれる「ブリコラージュ」的なやり取り、およびその働きかけの中で生まれる声のトーンや「間(ま)」、呼応しようとする動きなどが総体となって表れる「生気情動」(D.Sternが用いる概念です)が子どもたちとマッチしたという観点を持って報告を拝聴していました。これは「手探り礼賛、既製品は悪」ということではありません。使うモノ自体が重要なのではなく、その状況において、その場にあるモノや環境、働きかけなどを混ぜ合わせながら目の前の子どもたちとマッチしようとする(100%マッチするわけではなく、あくまで仮説的に呼応しようとする)responsibility…受け取り、引き受け、呼応しようとし続ける在り方こそが重要であり、先生がそのような姿勢を持っていらっしゃったからこそ〝かえるくん劇場〟の実践が展開し続けたのだろうと感じました。

「間主観」の危うさ、どこに「あいだ」を想定するか

次に「間主観」「あいだ」「共主体性」という言葉が独り歩きしてしまうことに伴う危険性について。報告の後の対話の時間に、今回の実践とは違った視点から「あいだ」という概念についての議論が深まり、「あいだ」「間主観」「中動態」「共主体性」などの〝流行りの言葉〟が表面的に現場に浸透してしまう危険性についてのお話がありました。やたらと「非認知能力」という語が流布している状況に対してモヤモヤしていること、院生の頃にセラピー理論的観点からの「間主観」について少しですが調べていたことから興味深くお話をうかがっていました。

子どもの姿を通してふと感じ、即応的に働きかけなければならない場面が連続する保育現場。ともすれば「正解」がないことと「何でも罷り通る anything goes」が混同されてしまいがちな環境に、表面的に「間主観」という言葉が流布することで、「子どもたちは、こう思っています!『間主観的に』私はこう感じました!だから、こうしたのです!」と自分自身の行為を正当化・合理化するための後ろ盾としてこれらの概念が用いられてしまう未来は何となく想像できてしまいます。そこに権威やら年功序列やら「空気を読む」やら独特な現場の悪しき伝統が混ざり合ってしまうと、余計にややこしく息苦しい事態に陥ってしまうことでしょう。そういう意味で、子どもと保育者とは別の人格であるということを明確に区分して考える必要があるのだと気付くことができました。

「間主観」という捉え方はセラピー理論的観点からも多様な捉え方があるようです。まだまだ不勉強ですが、同じ語を用いつつも、ある理論では〝わたし〟と〝あなた〟という境目が曖昧であるかのように感じる感性として、他の理論では〝わたし〟と〝あなた〟という異質な他者とが関わり合いを通して共構築していく場として用いられることがあるようです。もちろん双方が複雑に関連し合っているのですが、保育の場で言えば、前者は保育者の在り方を深める視点として、後者は「実践」とは何かを客観的・研究的・実践者がメタ認知的に捉える視点として有用なのではないかと考えました。そして、前者のような「間身体性」的な感覚だけでなく、双方の間に未知の、故に共構築されてゆく可能性を引き起こす場をイメージするような捉え方が理解されていくことで、異質性を保ちながら共構築され続けるという実践観が生まれてくるように思っています。この辺りは私自身の今後の課題です。

「変化しながら残す」〝動き〟を生み出す〜実践記録の役割についての一考察〜

3点目は実践記録の意味について。実践報告をされた先生から「実践記録って、皆さんどういうふうに読んでいらっしゃるのでしょう?」という問いかけがありました。確かに、当然ながら聞き手は実践者そのものではなく、実践が展開したその場にもいなかったでしょう(仮にいたとしても感じることは異なるはずです)。また、その子やその先生の人となりや生育歴などの背景となる部分とわからない立場であることがほとんどです(仮に親しい間柄であったとしても、この後記す汐見先生のお話にもあるように「人を『わかる』など不可能だし烏滸がましい)。

この問いを受けて、私が学部生の頃に教育実習での体験をゼミの仲間たちに話したことを思い出しました。報告の中で私は、難しい状況に直面すると大きな声を出して寝転んでしまうAくんとの関わりの中で少しずつ表情が豊かになってきたこと、最終日、Bくんが「生まれてきて良かった!先生もオレも!」と伝えてくれ、思わず涙が出たことなどのエピソードを紹介したのですが、ゼミの仲間たちが順に感想を伝えてくれた場面で、いつしかAくんとBくんが混ざり合いながら議論が展開していることに気付きました。私はそのズレを訂正しようとは思わず、そのまま議論を続けたいと思いました。もちろん伝えたいことと明らかに異なるズレであれば訂正しようと思ったのですが、私が心に残ったそれぞれの子どもたちの要素が生き生きと捉えられた上でAくんとBくんの要素を持つ、いわばCくんが誕生し、教師を目指す立場の在り方や視点についての豊かな語り合いが展開していたからです。

この「変化しながら残す」ものの例が民話や都市伝説ではないかと思い、最近個人的に注目しています。語り手・書き手は「日常」とは異なる事象と出遭った感動や衝撃などの情動を語ったり記録したりして伝えようとする。そして一方の聞き手・読み手は、その語りや記録と出遭う中で感じた情動と出遭い、その人自身の体験やその人が生きる社会・文化などの要素を混ぜ合わせながら心に宿していく(のちに、今度は聞き手・読み手が新たな語り手・書き手となり…という数珠繋ぎのような連鎖になる)。

この連鎖の過程で、当然ながらオリジナルの体験からのズレが生じていきます。けれど、確かに枝葉の部分は変化していきつつも、最初に生まれた異なるものと出遭ったインパクトは不思議と共通して残り続けているように思います。だからこそ時代を越えて「妖怪」「幻獣」などの存在は〝生き続けて〟いるのでしょう。

少し脱線してしまいましたが、実践記録を読む上で重要なことは一字一句正確な情報を暗記して全く同じ実践をする・もしくは全く同じ情報を「コピペ」して発信していくことではなく、「こういう関係性、こういう瞬間が大切だ」という根底の理念や哲学を捉え、それぞれの立場や状況・時代・社会背景の中で細かい枝葉を変化させていきながら「変化しながら残す」という〝動き〟を紡ぎ続けていく、その役割の一部を担うことなのではないかと私は考えます。

レッジョ・エミリアについて話すと、時々「1クラスあたりの子どもの人数と保育者の配置は?…へぇ。じゃあ日本だと無理だね!」と返されることがあります。また、現地のアトリエの寸法を正確に測り、現地の教室に置いてあるものを詳細に調べて同じものを用意しようとする「レッジョ・アプローチ」?にも出会ったことがあります。「形から入る」という意見も一方ではあるとは思いますが、それ以上に「表面的にならない理念や哲学を捉えようとし、自分が置かれた状況や身の回りにあるものを踏まえて理念や哲学をどう実践していこうか」という在り方や、マニュアル的な「正解」などない永久に続く不確かさに身を置く姿勢をこそ「変化しながら残す」必要があるのではないかと常々感じます。全く同じ状況、環境、モノを用意すれば良いなどあり得ないフィールドだからこそ、こうした〝動き〟としての実践記録観や「知」の捉え方が重要になってくるのではないでしょうか。

まとめ

研究会の最後に汐見稔幸先生がおっしゃっていた「『あいだ』は名詞ではなく『あいだる』という動詞として捉える」「『子どもを理解する』などと言うけれど、本人でさえ自分自身のことなど分からないのにあれこれ持ち出して『理解』される側はたまったもんじゃない。『understand』という語源に立ち返ることが大切だ」というお話が印象的でした。点や「ゴール」のある直線ではなく、絶え間のない連続性の中に身を置く…それは常に不確かさに満ちた手探りの連続になります。だからこそ、今回報告された先生が繰り返しおっしゃっていた「不確かさを楽しむ」という感覚が重要なのだと感じました。これはロイス・ホルツマンの「unknowability」と重なるように思います。


以上、長々と書いてしまいましたが、今回の研究会を通して感じ考えたことをまとめてみました。

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