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がんばらないことに言い訳を探す心理

週末は、珍しくほんのりと体調を崩していた。

「ほんのりと」と書いた通り、高熱が出たり嘔吐したりしたわけではなく、ただ少しお腹の調子が悪くて、少し頭が痛くて、微熱が出ていただけだ。


しかし、普段すこぶる健康なせいか、私は驚くほど痛みに弱い。

そこで土曜日は、あぁダメだ、だるい、つらい、と、友達と飲みに行く約束もキャンセルして、家でお粥をすすっていた。


そして重病感をかかえたまま、夜8時に布団に入ったのだが、まったく眠くならない。

そりゃそーだ、平日ならまだ働いているか、帰宅したての時間帯である。そもそも(重病感はあるが)それほど重病でもない。


そこで本を読もうと思ったのだが、読みかけの本は、どれも気が進まなかった。1つは哲学書、1つは仕事関連の本、1つは戦争もの。

うーん、今はどれも読みたくないなぁ。毒にも薬にもならないような、頭を使う必要もないような、ただの娯楽小説が読みたい。

だけど、3冊も読みかけの本があるのに、他の本に手を出していいのか?娯楽小説は私の糧になるのか?仕事関連の本を読むべきじゃないか?


・・・しばし葛藤した。

そして「私は今、体調が悪いのである。頭もお腹も痛いのである。ゆえに、難しい本は読めないのである」といちいち結論づけてから、おもむろに重松清をダウンロードした。

(小説はなかなかの感動作で、うっかり泣きながら夜更かしする羽目になった)


引き続き、日曜日もぐうたら過ごしたかった私は、無意識に昨日と同じ作戦を使っていた。

「体調は少し良くなったものの、まだ病み上がりである。まだお腹も少し痛むのである。したがって本日、外出はしないこととする」

そして、自分で苦笑いした。

小説を読んだり、家でゴロゴロしたりするのに、いったい何の理由や言い訳が必要だろう。

自分に対して、怠惰に過ごしてよい理由を説明し、自分で「それなら仕方あるまい」と許可するようなやりとりは、まったくアホらしい。


アホらしい、と頭では、思っている。

自分の時間は、自分が自由に使っていい。私はいつだって娯楽小説を読んでいいし、家に引きこもっていいし、ぐうたらゴロゴロ過ごしていいのだ。結果的にそのどれが正解かなんて、誰にもわからないのだし。

そう頭ではわかっているのに、怠惰に過ごすことには、なぜか変な罪悪感がつきまとう。


まったくこれこそが病気じゃないか、と思う。

何か生産的なことをしていないと、もしくは、わずかでも成長していないと、自分に価値がないと思ってしまう病。

もともと人の価値なんて、頑張ろうが頑張るまいが、みんな同じようなものなのに(と、頭ではわかっているのに)。


しかし、自分がこの生産成長モードにある、ということを気づけるときはまだいい。

もし無意識にこの状態が続くと、気づかぬうちにムリをし始め、いつかどこかで「あぁもう疲れた」と、さめざめと泣くことになる。(←経験者)

今週だって、もし体調を崩さなければ、私は友達と飲みに行き、キックボクシングの練習をし、ミャンマー語教室に行き、仕事の本を読破しようと意気込んでいただろう。そしてその反動で、来週末あたり「もう嫌」となっていたかもしれない。

つまり、スイッチONが続くと、電球は熱を持ち続け、いつか切れる。


なので、自分が生産成長モードにいると気がついたときは(たとえばこんな週末)、意図的にいったんそこから降りる必要があると思う。

もちろん「そこから降りる」つまり「スイッチOFF」というのは、どちらも抽象的な表現であり、実際にはそのための具体的な行動が必要である。


日本にいたときには、よくキャンプに出掛けた。

私がキャンプを好きな理由のひとつは「何もしないことに理由がいらないから」である。

草っぱらに寝っ転がっているだけで、私は「自然を満喫する」ということをしているのだし、火を見ながらボーっとしているだけで「焚火をしている」ことになる。

旅にも、同じ理論が通用する。旅先でボーっと町を眺めている時間も「旅をしている」のである。

そうして心置きなく、言い訳の必要もなく、心の赴くままにスイッチをOFFにして過ごすと、熱くなった電球が静かに元の温度に戻り、また次のスイッチONに備えられるのだ。


意識的かどうかはともかく、こういうものがどんな人にでも必要なのではないかと思う。


ところが私は今ミャンマー在住で、残念ながらキャンプできるような場所はない。(いや、あるのだろうが、野犬やゴキブリだらけなのでやりたくない)

そこで活躍するのが、数年前からトライしては挫折している「瞑想」だ。

これは思考を静止させることが目的なので、「何もしない、何も考えない」ということが正当化される。というか正当なのである。


思考を静止するというのは、実はものすごーく難しい。

私の場合、「頭を空っぽに…」と思うと、空のお椀が頭に浮かんで、それにホカホカの炊き立てご飯が盛られて、あぁ美味しそう、などと思考がどこまでも広がってしまう。(これを迷走という。)

しかも、何にでもすぐに飽きる私は、毎日瞑想を続けられたためしがなく、困った時だけ瞑想に頼る“にわかメディテーター”なので、身につかないこと限りない。


しかし、ミャンマーで生産成長モードから抜け出すための手段としては、おそらくこれが最適解ではないかと思う。

ということで、私はこれから瞑想に入る。

さぁ、スイッチOFF。

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