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世界に「すきま」を見つける

最近私が気になっているのは「すきま」という概念だ。

これが適切な単語かどうかはわからないけれど、ひとまず「すきま」として書き進めてみる。


洪水でハッピーになる人がいるみたいに、世界は一面的ではない。

それはもちろん当たり前なのだけれど、私が言いたいのは「何事にもいいところと悪いところがある」とか「色んな見方ができるよね」とかいうことではない。

そういう風に外から世界を眺めるのではない。


世界の内側にいて、色んなどうしようもないことに翻弄されている一人として「いろんな状況に押し流されながらも、楽しめるすきまがあるよね」ということが言いたいのだ。


先日のミャンマーの洪水の例で言えば、

災害は、もちろん人間にとって「災い」であり「害」であるはずなのだけれど、一方でその状況に順応し、楽しむ人もいる。

災害そのものを楽しんでいるわけではない。被災者でありながら、そのすきまに何かポジテイブなものを見つけて、楽しんでいる。


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災害ではなく、もっと人為的で、大きなものの例を示そう。

アフリカで毎年のように行われる、緊急食糧援助についての話だ。


「緊急食糧援助キャンペーン」の対象になっている場所に行くと、そこでは道端で餓死している人もいないし、少女がハゲタカに狙われていることもない。(ということが多いらしい)

では、なぜ「緊急食糧援助」が必要なのかというと、実は裏にはこんな話がある。


(以下は本からの抜粋、私の適当要約)

アメリカで穀物をつくり過ぎて、供給過剰になる。

→ 農家を救済するためにアメリカ政府は穀物を買い取り、アフリカに「援助物資」として流す。

この時、例えばWFPみたいな大きな組織が「緊急食糧援助キャンペーン」を張ることで、大量の援助物資の投下は正当化される。

(どちらが先かはともかく、そういうことは起きる。だから現地では食べる習慣がないような穀物が送られてきたりする。国際協力というのは色々な意味で、深い。)


そして、ここからが本題。面白いところだ。

アフリカの国が大量の穀物を受け取り、その穀物が末端の村人に届いた時、そこで何が起こるのか。


→ 穀物を受けとったアフリカの大統領は、与党を支持する地域に物資を流す。(物資がほしい人たちは、いずれ与党を支持するようになる)

→ 穀物を受け取った地域の首長たちは、住民に穀物を分配することで自分の権力を示す。

→ なんか知らんが、突然穀物をもらった住民たちは、それでお酒をつくり、村の祭りはいつもより盛り上がる。


なんとも呑気でのどかな話ではないか。

アメリカの農業保護政策が、外交の手段となり、アフリカの国内政治の道具となり、村長の権威を示し・・・そして最後に、村の祭りを盛り上げて終わる。

先進国の政府や大きな国際組織が、ものすごいお金と労力と時間をかけて実施したキャンペーンの先の「飢えている(はずの)人たち」は、そんな思惑を何一つ鑑みないまま、お祭りでいつもよりたくさん酒を飲み、踊り、眠る。


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最近たまたま見つけたNHKのサイトでは、戦火を生きる人たちの何気ない日常のエピソードが載っていて、読みながら思わず笑ってしまった。


防空壕から出ると、焼夷弾で焼けたカボチャ畑から湯気が立ち上っていて、ホクホクのカボチャをみんなで夢中で食べた、とか。

空襲警報が鳴る中、やっと手に入れたアサリを手放してなるものか、と家に留まっていたら機銃掃射されて死にそうになった、とか。


その人たちが戦争中、辛苦に耐えて生き抜いたことに疑いの余地はないけれど、その厳しい日常の中で、きっと誰かにカボチャやアサリの話をして、大笑したんだと思う。

それはちょっとした救いのようにも思える。


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大きなもの(例えばグローバル化とか戦争とか)の流れに押し流されつつも、押し流されている舟の上には、たぶんそういう「すきま」が生まれる余地があって、私はなぜかそういうものに惹かれる。

「緊急援助のあり方そのものを変えましょう」とか「戦争をやめましょう」とかいうことも、とても大切だと思う。

けれど、そういうどうしようもない大きなことの中に「どうにかできる小さなすきま」があって、それが何かいい世界をつくり出すためのヒントのような気もしている。(小さすぎるかな)

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