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洪水が起きるとハッピーな人たち

今、ミャンマーの各地で洪水が起きていて、避難者の数は4万人に達するという。

「それは大変だ、私のNGOでも何かできないだろうか」などと考えていたところ、カレン州(豪雨に見舞われた地域)出身のスタッフがこんな話をしてくれた。


「僕の町も今洪水なんだけど、洪水が起きると、町にはいいことがあるんだ。洪水で交通が遮断されて、そこから先に行けなくなった人たちが、何日か町に滞在するでしょ。そのおかげで経済が潤うんだよ。だから町の人たちは結構ハッピーなんだ。」

彼はなんだか楽しそうに、笑顔でそう話した。


いやいや、そういう一面もあるかもしれないけど、でも家に水が入ってきたりして、大変でしょ?

「あのね、洪水は毎年のことなんだよ。だから大体の家は高床式にしてあるし、もしそれより水位が上がったら、水が引くまでボートで避難するから大丈夫」


そのボートはどうやって調達するの?

「どの家にも準備してあるんだよ。毎年のことだって言ったでしょ。買い出しにもボートで行くよ」


バイクや車は、浸水して壊れないの?

「浸水するとエンジンの調子が悪くなるから、洪水が来そうだなーと思った時点で、みんな高台に駐車しに行くんだ。水が引いたらとりに行くんだよ」



・・・彼の自慢気な表情に、思わず笑ってしまう。

のびのびとした「洪水の日の日常」。圧倒的なリアリティ。


もちろん、これは深刻な被害も出ている中での楽観的な一面でしかない。

でも、ネットのニュースの写真にも、この溢れる「日常感」の片鱗が見え隠れしている気がする。


なんというか、災害にしては、人々の表情に悲壮感がいまひとつ足りないような。

日本の水害報道のような緊迫感など、どこからも伝わってこないのだ。


(そういえば、ベトナムにいた頃にも、同僚が「洪水になったら、魚が家に入ってくるんだよ!釣りに行かなくてもいいんだよ」と楽しそうに話してくれたなぁ)



私の属する国際協力NGOというのは、こういう場面で「感染症予防」とか「災害復旧・復興」などという支援の可能性を探っていく立場だ。

「困っている人がいるに違いない」と信じ、その人たちを「助けに」行くのが存在意義。


なので「洪水になると、町の人たちは経済的に潤うからハッピー」みたいな話を聞くと「あれっ?そうなの?」と肩透かしを食らったような気持ちになる。

(もちろん、それだけではないので、支援の余地はあるのだが)


私がプロジェクトを運営している山岳地帯の村でも、同じようなことが言える。

例えば、妊産婦死亡率が高いとか、道が悪くて病院にたどり着けない、などと聞くと「それは大変!なんとかしなきゃ」と思うのだけれど、「大変なはず」の村に行くと、そこで人々はのどかにゆったり日常を送っている。

牛を追い、畑を耕し、たまにバイクで買い出しに出かける。女性は冗談を言い合いながら火をおこし料理をし、ご自慢の料理で私たちをもてなしてくれる。

時計の針はいつもよりゆっくりと進み、静かで、平和で、穏やかな時間がゆるゆると過ぎていく。

そして「支援者」であるはずの私は「支援される側」である村の人たちの生活を見て、私もこんな風に暮らしたいな、などとうらやましがっている。


もちろん、妊産婦死亡率が高いという事実は変わらないし、それを少しでも改善するという意義が色あせることもない。

でもその重大な事実と目の前の平和な光景との間には、大きなギャップがあるような気がして、私は現実をつかみ損ねる。


(眠いので、次回に続く・・・)

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