見出し画像

しばらく青い鳥を探すのをやめようと思った

18歳のころ、私は文学部で歴史を勉強していた。

一応(本当に一応)4年間、都心の大学に通ったのだけれど、私は実は入学して間もなく「私、歴史学には向いてないかも」と思っていた。


というのは、歴史学は「過去に起きた出来事をいろいろな方向から検証し直して明らかにする」という学問なのだが(たぶん)、その検証の過程で、私はすぐに飽きてしまうのだった。

同じようなことについて(例えばナチスのユダヤ人政策について)何十冊も史料を当たるというのは、私にとって苦行に近かった。

私は、教職をめざす姉に「歴史、楽しくないかも」とポツリと打ち明け、姉は「えっ、私も教育学なんて楽しくないよ!」と励まして(?)くれた。


入学前は、卒業したら予備校で世界史を教えたい!(あわよくばカリスマ講師に!)などと思っていたのだが、そんな浮わついた夢はあっさりと破れた。

そして、私には「疑り深さ」だけが残った。(←誰も知らないだろうけど、史学科あるある)



次に目指したのは、看護師だった。

大学時代にボランティアやバックパッカーで東南アジアを巡った結果、いろいろ考えて(←雑)、途上国で医療をやろう!と思い立ったのだった。

なかなか時間のかかる方向転換だったが、神田川のようなアパート(通称ゴミカフェ)で暮らしながら、3年かけて看護師免許をとり、大学病院に就職した。


そして、看護師1年目。私は思ったのだ。

「看護師、向いてないかも」

当然、私は落ち込んだ。そりゃそうだ。私なりに覚悟を決めて、時間をかけて、看護師を目指してきたのだから。


なぜそんな風に思ったかというと、とにかく色々なことがうまくできなかったからだ。

そもそも私に限らず、新人看護師という時代は、トンチンカンな失敗の連続である。大まかに言って、だいたい何をやっても怒られる。

先輩との格差たるや、もしかして「新人看護師」という別の職業についたかな?と思うほど。


あまりの忙しさ(と新人のどうしようもなさ)に殺気立つ先輩看護師と、そんな先輩に話しかけることもできずオロオロする新人看護師。5月〜8月頃に、全国の病院で見られます。


さらに私の場合、なぜか人が亡くなることに耐えられなかった。

私たちは小児科だったので、子どもが亡くなるときは医者も看護師も本当にやるせない思いをしていたのだけれど、それにしても私の処理能力の低さは尋常ではなかったと思う。

それなりに外ヅラよく過ごしつつも、仕事が終わると仏教やキリスト教の本を読み耽り、休日には一人で山を登りながら亡くなった子に話しかけたりしていた。(←ホラーである)

子どもが亡くなるなんて小児科にいれば当たり前なのに、たった一人亡くなっただけで何ヶ月もそんな日々が続くなんて「こりゃダメだ、向いてないな、私」と思ったのだった。


しかし何はともあれ、私は働き続けた。

もちろん子どもは可愛かったし、楽しいことだって数え切れないほどあったから。そして何より、私は大学病院での勤務を「通過点」だと割り切っていた。

私が目指すのは、途上国医療。それが支えだった。


そうして3年後、ようやく少し看護師らしくなってきた頃、私は病院を辞め、青年海外協力隊員としてベトナムに赴任する。


しかし!二度あることは三度ある。がーん。

ベトナムの田舎の病院で看護師として働き始めた私は、再び「落ちた」のだった。


異文化とか、異言語とか、人間関係とか、ベトナムの看護への憤りとか、言い訳はいろいろあるけれど、何よりキツかったのは「何もできない自分」だった。

もう、本当にこれ。無力感につぐ無力感。

「挫折した」とか「立ち止まった」とか、そういうスマートな感じじゃなくて、もうなんていうか・・・鉛をつけて自ら沼の中に沈んでいった、みたいな。(←再びホラー)

これはもう、ここで書くと数日へこみそうなので省略する(笑)

楽しいこともたくさんあったけれど、それが霞むくらい辛かったよ。


ちなみに私は、青年海外協力隊を「夢の第一歩」、つまりやはり「通過点」と思っていて、きっと協力隊の後は何らかのグローバルな仕事に就くんだろうと漠然と思っていた。

だからベトナムにいる間に、国際協力を仕事にしている人たちにも色々と話を聞いたのだけれど、予想に反してあまり素敵!とは思えなかった。(なんせ沼の底にいたしね)

おかしいなぁ。私には国際協力の道しかない!と思ってたんだけど。違ったのかなぁ。じゃー何をしたらいいんだろう。

目標地点を見失った私は、通過点周辺から動けないまま、オロオロと数ヶ月を過ごした。



道を見失ったので、ひとまず私は看護師として働き始めた。平穏な毎日は楽しかったし、協力隊時代に比べたら本当に気持ちが穏やかだったけれど、やはり私は落ち着かなかった。

いつも心は、ここではないどこかへ。


新しい職場で仕事を覚えながら、英語の勉強をはじめ、NGOに転職しようか、海外で仕事を探そうか、大学院に行こうか、などと延々と迷いながら過ごした。

案の定、3年に満たず、私はまた仕事を辞めた。



今度は、NGOである。

ミャンマーの少数民族(=わりと取り残されている人たち)の健康を促進するための仕事だ。

現地駐在員ではあるけれど、中間管理職のような立場なので、それほど頻繁に現場に行くこともなく、だいたいオフィスでパソコンを叩いている。


ここで働き始めて約1年がたった現在、私がどう思っているかというと・・・


「オフィスワーク、向いてないな」


えー、またー!!(←心の声)



・・・そうして、さすがの私も、ようやく気付いたのです。

私は、どのようなものにも自分を賭けることができずにいる。それは職業のせいではなく、自分の心持ちのせいだ。


うまくいかなくなるたびに「これは私には向いてない」とか「もっと別の仕事はないか」とか、そんなことばかり考えている。

目の前のいろんなことに、それなりに真面目に向き合ってきたつもりだけど、心のどこかで「他にもっと楽しい仕事があるかも」と思っちゃってる。


次々に新しいことにチャレンジしているようでいて、もしかしたら私は、次へ次へと逃げまくってきたのかもしれない。

現に今だって「この仕事いつまでやろうかな」ってよく考える。

「この仕事しかない、ここで頑張るんだ!」という志は、ほぼない。(←これは残念ながら、国際協力業界あるあるでもある)


あちゃー。

実は心のどこかで、自分のそういう傾向に少し気付いていたのだけれど、ついにガッチリと向き合ってしまったよ。

ザ・夢見る凡人。


かといって「向いてないと思う仕事でも、頑張れば必ず向いてくる!」と盲目的に信じることは、難しい。

人間関係も仕事もそうだけど、合わないものはやっぱりあると思う。


ただ、ほとんどが楽しいもので構成されている何かの中から、少しのマイナス面を見つけて「これじゃない」と思う癖は、いい加減に直さないといけない。

それは「初めから向いている仕事なんて世の中には存在しない」と悲観的になることではない。「今の状況は十分に恵まれてる」と自分に言い聞かせることでもない。

そうじゃなくて、おそらく「何かをつかむまで、ここから逃げない」という覚悟ではないかと思う。

(何かってなに?という質問は受け付けません。何かです。)



・・・これが私の、先週の備忘録。

先週はなんだか気分が落ちていて、そうしたらちょっとだけ地に足がついた。(これを「落ち着く」というらしい)

忘れないように文章に残しておこうと思ったら、書くのが楽しくなってきて、とんだ長文になってしまった。


気が変わりやすい性分なので、来月あたりには正反対のことを言うかもしれないけれど、今の私はちょっと腹が据わっている。

何かをつかもう。何だかわからないけど、つかもう。次のことを考えるのは、それからでいい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?