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『フランクおじさん』監督:アラン・ボール

'Uncle Frank' dir. by Alan Ball, 2020
 アラン・ボール脚本・監督のAmazonオリジナル映画で、とにかく素晴らしかったのですがとりわけ、ノスタルジアに現代性を潜ませる、という点でずば抜けてました。自分の血縁に自分の事を受け入れてほしい、と願う気持ちが――多少なりとも――残っている性的少数者にとって不意打ちのギフトになってしまうような作品、とでも言いますか。

 観終わった自分が真っ先に連想したのはアン・リーが1993年に発表した『ウェディング・バンケット(The Wedding Banquet)』だったのでしたが、ドタバタコメディだけど最後にはホロリ、で〆た『ウェディング・バンケット』よりも深化した『フランクおじさん』は一発ギャグ的な笑いを、ストーリーの中で(適切なタイミング及び適切な分量で)不穏なテンションを高める為に駆使している。それはもはや ”ヘテロセクシャルっぽく振る舞おうと懸命になるホモセクシュアル” を面白おかしくスケッチするのは既に時代遅れになっており、「てか笑い事じゃないですけど(何ニヤニヤしてんだお前)」という体勢に我々の現世が入りかけているということであって、舞台を過去に設定することで誤ちを贖おうとする現代の姿勢でもある。

 映画の語り手はフランクの姪であるベス(彼女の父親がフランクの弟)。「私は何でこんなド田舎の大家族に生まれてしまったんだろうな…」と周囲からは浮き上がり悶々としつつ、ニューヨークからたまに戻ってくるフランクおじさんと話す時だけ解放された気分を味わっている。ベスにとってメンター的な存在であるフランクの励ましもあって彼女はめでたくニューヨークの大学に進学し、やがてその大学で教鞭をとるフランクの私生活にも触れるようになり…という展開なのですが、フランクと同居している恋人のワリド(米国風に「ウォリー」とも呼ばれている)がサウジアラビアから移住してきた男性、という設定が正に現在進行系のクィア映画。70年代のニューヨークにだって中東系のゲイは当然いただろうと思うけれどこの映画の中で、彼は自身の文化的なアイデンティティをほぼ捨てていない(ムスリムとして礼拝を欠かさず、ベーコンを嫌悪し、アラビアン・ポップスに乗って踊る)男性として描写されている辺りが現代の視点だと思う。これが20年前に作られた映画だったらフランクの相手が中東から来たムスリム、というアイディアは仮に出たとしても「いやそれだと情報量が多すぎて処理できない」とか何とか言われて採用されなかっただろう。でもこの作品の中でフランクとワリドは細かい文化摩擦を絶えず起こしながらも、肝心なところで摑んだお互いの手を決して離さないカップルとしてきちんと成立しているのだ。

 この映画がストーンウォール事件が起きた1969年から始まるのも無論「何となく」ではないし、サウスカロライナから逃げ出したフランクの行き先がニューヨークであるのも「何となく、ニューヨークとか?」ではなくて、彼は当事者であり時代の目撃者であるはず、という含みを持たせてある。そしてこの映画は1973年に終わる。ということはエイズ禍のかなり前ということであり、設定ではこの時点で46歳であるフランクが、やがて来るだろう80〜90年代をどう過ごしたのか/あるいは過ごさなかったのか、という茫然とせざるを得ないバカでかい空白の未来を想えば、父親の葬式に出席するためにかつて逃げ出した米国南部の故郷に嫌々ながら戻り、案の定&予想外な仕打ちに打ちのめされたりしつつも、最終的には概ね包摂される、というフランクの瞬間の幸福は宝石のようである。
 おそらくそれは、儚い貴石ではあるけれども。

『フランクおじさん』予告編

(蛇足)これを観て改めて、なぜ自分が『君の名前で僕を呼んで』にさっぱり打たれなかったのかもけっこう判ったのでしたがつまり、あの映画の中の世界は過去の繭の中でいつまでもまどろんでいて、現在も未来にも続かない作品だからなんだ、ということでした。

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