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『伯林漂流』レヴュー和訳(暫定)

香港レズビアン&ゲイ映画祭での世界初公開のあとでThe Hollywood Reporterにレヴューが載ったのを和訳してみました。多分に意訳誤訳があるはずですが、取り敢えず勢いで。
(付記:溝口彰子氏のご協力を得て一部改訳しました。2017.0918)

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ピンク映画俳優、そして強烈な成人向け映画監督:今泉浩一が、日本で最も著名な成人向け漫画作家と組んで、今年で一番きわどいロマンスを披露した。(エリザベス・カー)

「絶対に万人向けではないが、見どころはある」

ギャスパー・ノエ監督の『Love 3D』の生々しいコールド・オープンから数年が経っているが、俳優兼監督の今泉浩一はこの露骨な、故意に対決的なロマンス、観客をポルノ vs. アートの両極に分かち、果たして登場人物は探しているものを見つけたのか?と議論もさせる『伯林漂流』においてそれを凌いでいる。(これを「ポルノ」と呼ぶには、あまりのぎこちなさと見苦しい体毛にあふれていることも付記しておくべきだろう)ベルリンで2人の日本人男性がそれぞれの方法で真のつながりを探し求め、欲情にまみれた数週間の中で一緒になり、また漂い別れる。

低予算映画である『伯林漂流』はオランダのポルノスター:Michael Selvaggio、ドイツのセルフ・エロティック・フォトグラファー:Claude Kolzから中国のLGBT活動家・劇作家:Xiaogang Weiにいたるまでの、アジアとヨーロッパのエロスの専門家たちを総動員しているが、最も注目に値するのは日本のゲイ・エロティック・アーティスト、田亀源五郎(とても安直に表現するならば日本のトム・オヴ・フィンランド)の参加である。当然のごとくtriple-X(ハードコアポルノ)である『伯林漂流』におけるセックスと、艶っぽい愛情表現に欠けるその資質のために、メジャーな映画館はおろか性表現に寛大な映画祭からすらはみだしてしまうが、ニッチなイベントやダウンロードや配信サービスにターゲットを定めれば、その外側に確実に存在するはずの観客を獲得することができるだろう。

東京からベルリンにやってきた若者リョータが会いに来た男は、セックスの後で彼をアパートから追い出す。宿泊先の当てをなくして、気がつけばリョータはセックスクラブの地下で寝ていたりする。彼はオンラインでの出会いを真実の愛であると確信し、自分が宿無しになるなどとは思いもしていない。そのクラブのバーでコーイチ(今泉監督自身が演じている)はアーティストである友人シャオガンとたまたま呑んでいたのだが、そんなリョータを気の毒に思ってNollendorfplatzの自宅に泊める事になる。初めリョータは掃除に買い物にセックスの提供に、とコーイチに対して過度な感謝を示し、この二人組は奇妙な家庭生活を営むようになる。しかし、結局はリョータのグラインダー(出会い系APP)がまたしても災難を呼び寄せるようになる。リョータは他の男を探さずにはいられなくなるのだが、コーイチはリョータに愛着を感じるようになりつつあり、嫉妬が彼らの関係に忍び寄り始める。

今泉浩一は、ピンク映画〜日本のソフトコアポルノ映画。例えば昨年評判になった日活ロマンポルノシリーズのような日本の著名な映画制作者の一部にキャリアのスタートを与えた系統の映画〜の俳優としておそらく最もよく知られている。監督としての彼は、『すべすべの秘法』(Lyota Majimaが主演している)と恐ろしげなSFレイプ・コメディ(?)映画『家族コンプリート』でも際どいセックスを扱ったが、現時点でのベスト作は2007年の『初戀』だろう。ある若者がひと夏の間に、自身のゲイ男性としてのアイデンティティを受け入れる、繊細で魅力的なストーリーだった。同じような物語のコントロールは『伯林漂流』にも潜んでいて、それは田亀が初めて手がけた脚本によってより鮮やかになっている。田亀のファンは彼の旗印(男らしさと性の探究)があるのを知って喜ぶだろうが、日本における同性愛者の受容や彼らのスティグマについての洞察は、彼の知的で感動的な、ゲイを題材にしたファミリー漫画『弟の夫』で実証済みである。今泉と田亀は、ワイルドで魅力的なベルリンを創り出した。そこはナイーヴなリョータにとっては理想的な場所であり、48時間以内にロマンスを見つけられると思い込んでいる彼にとって安全な避難所でもある。コーイチにとっては、トラブルばかりだった過去から隠れることができる(彼が無視し続ける電話のコール音がヒント)と同時に、その悩ましい過去の関係をどう評価するかを考えることができる場所である。リョータとコーイチは同じ道の上にいる漂泊者として、違う方向から見事に描き出されている。

『伯林漂流』を観るあなたは、この映画に出てくるすべてのセックスの先に行かなくてはならない。この作品はその未熟なプロダクションや出来不出来のムラが多い演技に足を引っ張られているが、それでもこの映画の基本的に甘美な――そしてトラッドな――心を隠すことはできない。皮肉なことだが、今泉と田亀はセックスシーンの使用には細心の注意を払っている。観客のエモーションが最も報われる部分は、映画の残り部分を占めてかつ前面に押し出されている裸のシーンでは全くない。コーイチの昔の恋人であるミオオとの再会や友人シャオガンとの離別も、リョータが自分の真実の愛の探し方は全く間違っているのかもしれない、と薄々気づき始めるさまも感動的でありかつ、辛辣でもある。アレクサンダー広場がこんなにも寂しげに見えたことはついぞ無かった。

レイティング:なし

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