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ダグマー・ヘルツォーク著(2005)・川越修/田野大輔/荻野美穂 訳(2012)『セックスとナチズムの記憶 20世紀ドイツにおける性の政治化』

Dagmar Herzog 'Sex After Fascism'

「戦争直後の保守的なキリスト教関係の史料のなかで、カトリックとプロテスタントのいずれもがナチズムを徹底的に淫乱なものとして描き、ナチズムの性的不道徳さ――性道徳の分野におけるタブー破り――とジェノサイドとの間に因果関係があると主張していることに、私は驚かされた。彼らはナチズム後の最も緊急の課題として、性的純潔への回帰と家族的価値の復権を求めていた。けれども一九六〇年代から七〇年代に『戦争ではなく、愛を』と呼びかけた学生反体制運動の世代になると、史料には依然として性が溢れていたが、第三帝国についての解釈はまったく正反対だった。いまや、第三帝国は徹底して性に抑圧的だったと主張されていたのである。ドイツ人は『束縛され』、性的に不満を抱えていた。それが、彼らがヒトラーに投票し、ナチズムに魅力を感じ、そしてユダヤ人を大量に虐殺した理由だったというのである」’日本版への序文:ⅴ’

戦後に発表された作品で表象されたナチス政権下での性、というと自分は観てないので偉そうなことは言えない…というか観てないからこそ陳腐なイメージだけがある、とも言えるのですが『愛の嵐』(リリアーナ・カヴァーニ監督、1974)みたいなやつですかね、SMのイメージプレイ+コスプレつうかやっぱ軍服ってエロい(これはまんまトム・オヴ・フィンランドの描く世界にも流れ込んでいる)程度の漠然としたものでしたがこの本で(歴史研究としては二次史料にのみ依拠している、と訳者がちょろっと不満を表明していますが)著者が追おうとしているヴァイマル期〜第三帝国〜戦後東西ドイツにおける「性」の扱いというものは連続したり断絶したりしながらリレーされてきたことが判る。そしてヨルゴス・ランティモスが2015年に撮った『ロブスター』を観ながら自分はどうも何だかナチス in 21世紀っぽい、と思ったのは決して『愛の嵐』的なイメージによるものではなく、単に禁煙が徹底されているような社会描写からだったのでしたが原題『ファシズム後のセックス』を読んでみるとああそうか、権力側が決めた設定に該当する人間のみが性の自由を謳歌できる世界ということだったのか、と腑に落ちる。

日本式の「産めよ増やせよ」というのはもちろんナチス期のドイツにもあったものの、それはどちらかというと長期的な最終目標とでも言うべきもので(実際大戦中のドイツの出生率は下がっている)、結局のところ政権内でも一致できていなかったとは言え、基本的にナチスが推進しようとしたのは「アーリア人の」「異性愛者が」「旧弊なキリスト教的(+ブルジョワ的)なものへのアンチとしての」性の自由だったようなのだ。婚前交渉、婚外子は問題なし、ただし異民族異人種とのセックスや妊娠はNG、中絶はかなりNG、同性愛(主に男性間が問題視される)は治療または強制収容所送り、街娼は取り締まるが軍隊向けにも売春宿は管理する、と書いてみると要は何でもかんでも自分の理想に沿って設定を作り込みたがる(おっさんの)姿しか浮かんでこない。

で、ナチスが大コケした後を生き抜かなくてはならなくなった場合、とりあえず建前だけでも全否定しておかないといけないのでその都度ナチスがどうだったか、の捉え方がコロコロ変わり、性に関して言えばある時はめっちゃ退廃的とされたり、ある時にはむちゃくちゃ抑圧的だったことにされ、批難したい相手を「このナチ」と言っときゃオッケー、という意味で便利に使われてたんだなあ、と思います。あと「セックスとナチズム」というタイトルから何となくヘテロセクシュアル一辺倒な内容かと思ってましたが全然違い、戦後ドイツにおけるゲイリブが辿った変遷についての、とても判りやすい見取り図も包括した本でした。


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