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『クセニア』監督:パノス・H・コートラス(2014)

"Xenia(Ξενία)" by Panos H. Koutras, 2014

「君が生まれたとき、クセニアという名前をぜひつけようと思った。このギリシャ語の語源は『クセノス』で、他人とか異邦人という意味だ。『他人への優しさ』とも訳される。この名前が気に入ったのは、国家や社会は、よそ者の目で見るほうがその本当の姿がよくわかると私が思ってきたからだ。」ヤニス・バルファキス:著/関美和:訳『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。(Yanis Varoufakis 'Talking to My Daughter About the Economy: A Brief History of Capitalism')』2013/2019 p. 241

 この映画で初めて知った単語「クセニア」は地名か何かだと思ってましたがそうではなく、劇中に出てくる廃ホテル『Xenia』はどうやら60年代以降にギリシャ政府が率先して建てたホテル建設プロジェクトの名称でもあるようなのでまあ日本で言ったらかんぽの宿みたいなもんか。だもんで具体的な場所はちょっと自分には特定できないのですが非・ギリシャ人観客としてはクレタ島〜アテネ〜テッサロニキとギリシャを北上するロードムービーである、くらいの理解でいいと思う。

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 これがどういう映画なのかと言いますと、クレタ島生まれの兄弟(弟はゲイ)が主人公。兄のオデッセアスは出稼ぎでアテネのファーストフード店で働いている。彼らの母親はアルバニア移民で、元歌手なのだが母親がクレタ島で死んでしまい、ゲイの弟のダニーは兄を訪ねてアテネにやってくる。しかし2013〜2014年のアテネなのでそれはもうえらいことになっており、経済どん詰まり+ネオナチ跋扈な首都で、公式にはアルバニア人ということになる彼らは常に自分たちの身分が不安定である事が身に沁みている(なので兄のオデッセアスはノーテンキでゲイな弟の安全を常に案じて「アテネには来るなとあれほど」と叱る)。で、彼らがギリシャ本土で何をするのかと言うと「自分たちを捨てたギリシャ人(であるはず)の父親探し」である。父親が認知してくれさえすれば、彼ら兄弟はギリシャの市民権が取れるからだ。これが住んだこともないアルバニア国籍よりは格段に使えるシティズンシップなのは誰だって判る。+歌が上手い兄オデッセアスが弟ダニーに励まされてテッサロニキ音楽祭コンテストに参加しようとする…というのが大体の粗筋です。

 劇中で何故か執拗に強調されるのが彼らの年齢で、兄のオデッセアスはちょうど18歳になるところで弟ダニーは未成年の15歳9ヶ月半、でこの二人は外見はさっぱり似ていない。兄弟が母親の旧友であるゲイのおっさんタソス(クラブを経営している歌手)を訪ねていってダニーが「父ちゃんは僕らに似てる?」と聞くと彼は一瞬ためらったのちに「君らはお母さん似だ」と口を濁してはぐらかすのですが(実はこのタソスが本当の父親なのではないか、と思わせるカットがある)それでも当時2歳だったダニーは「父ちゃんの胸に抱かれて眠った記憶がある。毛深かった」と言い張る。つうかダニーにとって父親の胸毛というのがある種のオブセッションになっており、自分にはない胸毛が生えてる兄のオデッセアスへの執着も際どい感じで出てくるのですが、その辺も近親相姦の泥沼的な展開には全くなりません。

 この二人が「北へ北へ」と行く話の運びも実に無理のない行き当りばったり風に見えるのがこの作品の実に巧みなところですが、兄にスターになって欲しいダニーの全く空気読まない行動に、たまたま音楽祭のあるテッサロニキに彼らの「父親である可能性がある、現在は極右政党の政治家」が住んでいるらしい、という情報が絡まって(主にダニーがやらかすことにより)事態がどんどん前のめりに進行していく様は痛快の一言に尽きる。

 オデッセアスはダニーとの対比として極く常識人として設定されているのですが、それにしてもダニーのキャラクター設定はかなり極端なもので、常に砂糖が必要(これはそういう体質という設定かも。パスタの仕上げにためらいもなく白砂糖を掛けたりする)で甘いものを摂取していて、また常にウサギを同行している。半分以上は妄想で成り立っているとも言えるダニーの「ポイント・オヴ・ヴュー」が現実の世界に予告なしに働きかけるとき、この映画は奇蹟のような動きを見せる。夢こそこの世の真正の現実。そうして宝石(森茉莉)、とでも言いましょうか。で、自分が最初にこの映画を観た2015年には「親父の胸毛とウサギくん」とか要約して片付けていたのでしたが今年になって前掲の元ギリシャ財務大臣ヤニス・バルファキスの本に思いがけず「クセニア」という言葉の解があったので思い出して観直したところ、何だかぼろぼろと発見があったのでした。

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 主人公兄弟はギリシャ生まれギリシャ育ちではあるけれど身分としては「ギリシャ人」ではなくアルバニア人という事になるので従って「よそもの=クセニア」である。かと言ってアルバニアに行けば万事が可決する訳では無論なく(オデッセアスがウクライナ出身のガールフレンドに「アルバニアに行ってみたい?」と聞かれて「うん。好奇心から、ってだけだけど。てか自分はストレンジャーでしかないよ」と答えるシーンがある。また物語を動かす契機となるのはアテネに暮らすアルバニア人の若者集団にダニーとオデッセアスが襲われる事件だったりもするので要は彼らはどこに行ったって「クセニア」なのだ)。ある一人の人間を他人が同定する時に拠り所となるのが当然ナショナリティである、という原則が強まるのと同時進行でそれでははっきり規定できない状態の人もまた人間である、というところが可視化されつつ面倒くさい感じになっている現代なのですが、『クセニア』はそんな世界の構造をテキストではなく物語として雄弁に語る。

 この映画公開当時、"Greek Weird Wave"という言葉がその頃に発表されたギリシャ映画に冠されたりもしたことを思い出し、それを聞いた時に自分は「ああ国がグダグダになると面白い作品が出てくるって事かな?」とめっちゃ他人事みたいに思ったものでしたが(そしてそこから世界にするっと抜け出したのがヨルゴス・ランティモス)下手をすると3年後くらいには"Japanese Weird Wave"とでも言われる状況になってるかも知れん、と2019年現在の今にひたひたと迫るものを感じるのです。

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 追記:自分がこの映画でハイライトの一つだと思うのがこのイタリアのポップシンガーであるラファエラ・カッラの『ルモーレ』で兄弟が踊るシーン(動画)。そしてラファエラのオリジナルがこれ(あたまおかしい)。ラファエラ・カッラの他にも劇中でダニーが拘っているイタリアの歌手パティ・プラヴォもご本人で出てくるのでこの、ギリシャにおけるイタリアン・ポップスの受容というのは余所者には判らない感覚だなあ、ということだけは判りました。

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