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【紫陽花と太陽・中】第九話 遺言付きの写真[4]

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「ねぇ、おじさん。これ、なんてよむの?」
「ん?」
 なんとなしに椿ちゃんの持っていた紙を見た。
 俺は箸を取り落とした。

『とうさんの遺言』
 そう、書かれていた。そして次に二行。
『いつも わらっていること』
『あずささんが しごとやけっこんしていえをでるひまで まもること』

「おじさん? ……あれ、これうらがしゃしんだ。あずさお姉ちゃんのしゃしんだよ」
 ほら、と言って、呆然とする俺に、椿ちゃんが裏面を見せてくれた。
 あずさちゃんが笑っている写真だった。

 俺は激しく動揺した。見てはいけないものを見てしまった、そんな感覚があった。
 ほぼひらがななのに、遺言の文字だけが漢字なのが、またひどく謎だった。
 俺は飯碗を置き、落ちた箸すら拾わずに、額に手を当てた。
 そういえば、椿ちゃんの質問に答えていなかったことを思い出す。
「それは、ゆいごん、と読むんだよ」
「ゆいごん」
「うん。椿ちゃんと遼介くんのお父さんが、最後の最後に伝えたかった言葉のことを言うんだよ」
 言いながら、俺は疑問が頭から離れない。お義父さんが最後に伝えたかったことは、本当にこれなのか? これは一体いつの話だ。いつお義父さんは遼介くんにこの話をしたのか。
 お義父さんは、手術で声帯を取ってから言葉を話すことはできなくなった。病院に何度も看病をしに通っていたのは、桐華と梨枝さんと俺だけだ。遼介くんはほとんど行けてなかったと思う。行った時は、手紙を携えていたはずだから、話をすることはできなかったはずだ。だとしたら、これは、本当にお義父さんの言いたかったことじゃないのでは……?

 俺は遼介くんが微笑んでいるのをたくさん見てきた。葬儀の前後はさすがに笑顔は見られなかったが、一人で旅行をした後からはわりと笑顔も見られるようになってきて、俺は安心した記憶がある。仕事をし始めてからも、あずさちゃんが事件に会ってしまった時も、彼は微笑んでいた気がする。
 ……でも、それは、本心ではなかったのか? 遺言を守るために、無理やり笑おうとしていたのか?

 そしてもう一つ、あずささんが……のくだりだ。
 この文面だと、結婚をして家を出るのはあずさちゃんだ。あずさちゃんだけが家を出るような文章に読めてしまう。遼介くんは? 一緒ではないのか?
 それに、家を出た後は守る必要がないような文章だ。出た後は誰が守るのか?……それは、あずさちゃんの選ぶ人に託す、そういう意味なのか? それは遼介くんではないのか?

 俺は深く息をはいた。
 この遺言を、書いた紙の裏面は誰がどう見てもあずさちゃんだ。今よりも幼く見えるということは、中学生くらいなのか。ただ、遼介くんは前に話してくれた。出会ってからしばらくは、あずささんは全然笑わない人だったんですよ、と。
 この写真は笑っている。制服ではなくてジャージのような服を着ている。
 いつの頃の写真かは、俺には分からない。
 分かるのは、遼介くんは、きっと、俺が考えている以上にあずさちゃんをとても大切に想っているということだ。おそらく椿ちゃんよりも。
 俺の職場の家族持ちも、デスクの上に写真を飾っている人はいる。家族写真か子供だけが写った写真だ。
 遼介くんは、家族写真ではなくあずさちゃんだけの写真を選び、それをこんなにボロボロになるまで肌身離さず持ち歩いている。それほど大切に想っている人を、遺言では結婚する日まで守って、それから先は誰かに託さないといけないと言うのか。

 椿ちゃんが、急に黙ってしまった俺を見て、不思議そうに呟いた。
「お兄ちゃん、あずさお姉ちゃんのこと、すごくすごーくすきなんだねぇ」
 そうだよな。そう思うよな。
「これ、あずさお姉ちゃんに、おしえてあげよーっと」
 椿ちゃんが写真を片手に持って振り上げたところで、パッと写真が消えた。
「何してる」
 遼介くんが、仏頂面で椿ちゃんを睨んでいた。
「あ、おきた」
「勝手に見ないでよ」
「かってにじゃないもん。おちてたんだもん、メモちょうが。テーブルにおこうとおもったら、なかからでてきたんだもん」
 ちょっと怖かったのか、椿ちゃんが慌てて弁明した。
 とたんに遼介くんがパッといつもの穏やかな顔に戻り、椿ちゃんにお礼を言った。
「そっか。ありがとう」
「うん! ねぇ、このあずさお姉ちゃん、ちゅうがくせいのときの?」
「そうだよ」
「へーっ、わらってるね! お兄ちゃんがカメラでとったの?」
「いや、写真屋さんが撮ってたと思うよ」
「そうなんだ」

 写真屋が撮影するということは、何かの行事の時か。俺はそっとため息をついた。どちらにしても俺はどうすることもできない。お義父さんはもうここにはいない。確かめる術はもうないのだ。

「お兄ちゃん、あずさお姉ちゃんのことだいすきだよね」
「……そうだねぇ」
「お姉ちゃん、よろこぶよ! だって、お姉ちゃんもお兄ちゃんのこと、だいすきだっていってたもん」
 椿ちゃんの口から爆弾発言が飛び出した。遼介くんをちらりと見ると、案の定目を丸くしていた。
「そうなんだ」
「おなじクラスのさっちゃんもね、だいちゃんもね、ふたりともすきなんだって。そういうの、りょうおもいっていうんだよね」
「そ、そうなんだ」
「りょうおもいだと、デートってするんでしょ? お兄ちゃんたちはしたの?」
「デート? 小学二年生で、そんなことするの?」
「さっちゃんとだいちゃんはいっしょにかえったり、あそんだりしてるよ」
「はぁ」
「お兄ちゃんはいっしょにかえったり……しないか。あそんだり……してないね」
「まぁ、家族だからね」
「お姉ちゃん、きっとしたいだろうなぁー。いっしょにあそべばいいのに!」
「……」

 椿ちゃんは遼介くんの隣で、ローテーブルに置いてあった折り紙で何か折り始めた。暗いリビングに沈黙が降りた。
 やがて、遼介くんが椿ちゃんの頭をポンポンと叩き、呟いた。
「まぁ、あずささんもさ、いつかこの家を出る日が来るから。梨枝姉みたいにさ。仕事し始めたら、きっと。椿も今のうちにたくさん遊んでおくといいよ」
 椿ちゃんが目を丸くする。
「梨枝姉がいなくなっても、あずささんがいなくなっても、僕は椿と一緒にいるから。安心だろ?」
「いやだぁ!」
 椿ちゃんの顔が歪んだ。首を振りながら、いやだいやだと繰り返す。
「お姉ちゃん、いなくなるのいやだぁ! なんで? どうしてお兄ちゃんみたいにいっしょにいるよって、いってくれないの?」
「あずささんにはあずささんの生き方があるんだよ」
「わかんないよぉ、ずっといっしょにいてって、いえばいいじゃん!」
「……言わないよ。皆、自分で決めていくものだから」
「お姉ちゃん、まってるよ。お兄ちゃんといっしょにいたいって、いってたもん! おふろで、いっしょにはいったときに、かなしそうにいってたもん!」
「どうして悲しい顔をするんだろうね」
「私だって、どうしたらお姉ちゃんがかなしくならないのか、いっぱいかんがえたんだよ。でもわからなかった。お兄ちゃんならきっとわかるのに。お兄ちゃんならだいすきってことだって、いっしょにいてほしいってことだって、いえるじゃん」
「言えないものは、言えないよ」
「なんで!」
「しつこいよ! 椿!」
 遼介くんが大きな声をあげた。とたんに椿ちゃんが黙り込む。
 俺は食事が冷めるのも構わず、静かにそこで見ていた。
 遼介くんがため息をついた。
「椿が僕にどうしてほしいのか分からないけどさ。あずささんがこの家にいたいって思うならいるだろうし、もう大丈夫だ一人で生きていけるって思ったら、お別れをするんだよ。大きくなったら椿も分かるんじゃないかな。確かに、悲しいかもしれないけど、今すぐっていうわけじゃないんだから、そんな顔しなくたっていいじゃないか」
 椿ちゃんは折り紙を何度か折ってはいたが、もう手は止まってしまっていた。
 ポタリ、と椿ちゃんの目から涙が出た。
 遼介くんが無言で、近くにそのままになった洗濯物の山から小さなタオルを取り出して、椿ちゃんの涙を拭いた。
「お姉ちゃん、すごくかなしそうなんだよ。ずっといっしょにいたいけど、それはいえないって。ぜったいにいわないでほしいともいってた」
 涙を拭いていた遼介くんの手が固まった。
「……お姉ちゃんにね、どうしてずっといっしょにいたいっていえないのか、きいたんだ。そしたら」
 椿ちゃんが潤んだ瞳でキッと遼介くんを見つめ、言った。
「あずさお姉ちゃんはね、じぶんがきたないからっていったんだよ。おふろにはいってるのに、いつもきれいにあらってるのに。私、ぜんぜんわからない。お兄ちゃんはわかるのかな。どうしてあずさお姉ちゃんはかなしくなるのかな。わかるならどうにかしてあげてよ。……私、そのしゃしんみたいに、あずさお姉ちゃんにいっぱいわらってほしいよ」

 遼介くんが俯き、黙り込んでしまった。
 俺は冷めて固くなってしまった飯を口にかっ込んで残さず平らげた後、静かに台所のシンクに食器を下げ、その場を去った。去り際に遼介くんの顔を見たが、俯いていて表情を窺い知ることはできなかった……。

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(つづく)

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