【紫陽花と太陽・中】第十話 告白[2]
家に帰ると、ガランとしていて誰もいなかった。
ホワイトボードを見ると、桐華姉はお友達と会いに、椿はクラスメイトの家に遊びに行っていると書かれてあった。姉は身ごもっているので普段はずっと家にいるが、出産前に全部したいことをする! と高らかに宣言し、大きなお腹をかかえてあっちこっちと出かける日が多くなった。
「お花、水揚げしてしまうぞ」
「あ、うん。ありがとう」
一息つかずに、あずささんが台所でお供えの花を水切りし始めた。パチン、パチンとハサミの音が響く。桐華姉なら帰ってすぐソファに寝っ転がって、そのままゴロゴロするであろうに、彼女はいつも労を惜しまず家のことをしてくれる。姉なら花を買ってきたそのままの状態で仏壇に供えるだろう。
洗濯機をまわし、軽く床に掃除機をかけ(我が家は洗面所にハンディタイプの掃除機を置いているので、掃除と言ってもほんの数分で済む)、洗面所をざっと拭き上げた。
台所に戻ってくると、あずささんは奥の和室でお仏壇に花とお菓子を供えていた。
「このお花、やっぱり好きだな」
「リンドウか」
「あー、そういう名前だった気がする。菊も長持ちしていいけど、リンドウの色が好き」
仏壇の前の座布団に座った。父が、記憶と同じ満面の笑みでこちらを見ている。あずささんが静かに席を外そうとしていたので、苦笑いをして僕は言った。
「いつも気を遣ってくれるよね」
キョトンとしてあずささんが僕を見た。
「今日は、一緒にお参りしたい」
「珍しいな」
「……そかな」
座る位置を少しずらして、二人で仏壇の前に並ぶ。
頭に浮かぶのは、昼間思い浮かんだ父との思い出。
父の、遺言。
……だと、ずっと思っていた言葉。
『いつも わらっていること』
それと。
『あずささんが しごとやけっこんしていえをでるひまで まもること』
ひらがななのは、言われたことを忘れないように写真の裏面に走り書きをしたからだ。
僕は漢字が苦手なので、急いで書くような場面ではひらがなだらけになってしまう。おかげで仕事のメモ帳は暗号文のようにへびがのたうちまわったような有様に仕上がっている。
いつも笑うこと。聞いた時は簡単そうだなと思ったけど、父の死ぬ前後は相当難しかった。
父はいつも笑っていた。会うたびにいっぱい笑って、困った顔をすることはあっても、怒られたことはなかった。
葬儀が終わってしばらく経ち、だんだん笑顔でいられるようになってきた。
二つ目の言葉。
あずささんが、夢を叶えるために進学を希望していることは知っている。夢を持つきっかけとなる辛い出来事も、知っている。彼女は頑張り屋だ。きっと、大学に入ってもっと勉強をして、念願の仕事に就けるだろうと確信している。
結婚をして家を出ることがどういうことなのかも考えた。昔、あのままあの家に閉じ込められていたらできなかった、安心できる僕たちの家を土台にして、多くの人が経験するたくさんのことを知り、彼女自身の力で生きていくということ。好きな人ができて、その人と助け合って幸せに生きていくということ。隣で応援しないといけないと思っていた。
あずささんではなく、椿だったら。
それなら、心から頷ける。両親がいなくても逞しく元気に育ってほしい。仕事をめいっぱい楽しんでほしい。幸せな結婚をしてほしい。今は小学生だからずっとずっと先のこと。椿が仕事をするくらい大きく……って、何年後? 十年? いや十五年くらい後かな?
昔の、忘れ物ばっかりの頃に、あずささんに言われたような気がする。
『先を考えすぎて、今がおろそかになっているのかもしれないな』
そうなのかもしれない。先ばかり見ても、結局今はどんどん変わってしまう。
母は死んでしまった。父も死んでしまった。
あずささんが隣りにいる。好きだったのに、大事だったのに、一瞬で取り返しのつかないことが起こってしまった。
姉が結婚し、旦那さんと一緒に住むようになった。赤ちゃんができた。
梨枝姉は一人暮らしをするため、家を出た。
どれも、想像することができなかった。
未来を見ていたって、今が変わってしまえば未来もどんどん変わっていく。
考えても、意味がない。
だったら。
僕の知らない「誰か」と結婚をするあずささん。するかもしれないし、しないかもしれない。考えても仕方がない。
確かなことは、今の自分の気持ち。椿から聞いた、あずささんの気持ち。
僕は、きちんと伝えたい。
僕は胸ポケットからメモ帳を取り出し、中から写真を取り出した。角も紙の折り目も既にボロボロのこの写真。裏に、父との約束を書いたこの写真。
写真をちぎった。三センチ角くらいに小さくちぎって、線香立てに捨てて、マッチで燃やした。
「え、燃やしてしまったのか」
「うん」
「それは、何だ?」
「うーん、忘れないようにしていたメモだね」
あずささんはそれ以上聞かずに、僕の表情を伺っていた。いつもよりかなり長く手を合わせて考え事をしていたからかもしれない。あずささんはもう拝んではいなくて、両手を膝の上で重ねて座っていた。
「待たせてごめんね」
僕はあずささんの方に身体を向き直す。心臓がまたバクバクと鳴り出した。顔すら見れない。
「具合でも悪いのか」
「ううん、違うよ。大丈夫」
ちょっと咳をした。
「あずささんに伝えたいことがあって、父さんに話しかけてた」
父さんがこの遺言を言った時、僕たちは楽しかった。あずささんが死にたいと言った出来事も、まだ起こっていなかった。皆で年越し蕎麦を食べておしゃべりしたあの頃は、楽しい未来があると思っていた。父だって想像していなかったことが、それから起きたから。
「……だから、遺言は、無効だよ」
「え?」
「あずささん!」
ずい、と身を乗り出した。昔みたいに。照れくさいとか、恥ずかしいとか全く知らなかった昔みたいに。
まっすぐあずささんを見た。
「僕は、あずささんが、好きです」
間ができた。
「ずっと、一緒にいたいと、思ってます」
あずささんがポカンと口を開けている。
やっと言えた! のに、沈黙が続く。
……いつもの好きと勘違いされている?
中学の頃は自然に口に出していた気がする感情表現の言葉。たくさん口走っていた過去の自分を呪った。重みが全然なくなってしまってるじゃないか!
「……家族として、じゃなくて、ええと……」
「……」
「特別に、好きってことです」
「……」
伝わっているか分からなくてちらりと表情を伺った。顔を伏せてしまっているのでどんな表情かちっとも分からなかった。
じわりと汗が出てきた気がした。
「……その」
あずささんは何も言わない。
「あずささんに、キスしても、いいですか」
あずささんが両肩をビクッと震わせた。僕は心臓が凍りついたような気持ちになった。彼女の両目から大粒の涙がどんどん出てきた。
腕で顔を隠し、声も立てずに泣き出した。溢れる涙がどんどん膝に落ちてきた。
……怖がらせてしまった、と思った。
……取り返しがつかない、と思った。
長い沈黙が降りた。やがて、あずささんが絞り出すような声で口を開いた。
「私なんかじゃ……」
「え」
「……私、は、汚い……のに」
目を瞠った。聞こえたのは、己を卑下する言葉。
どれほど待っただろうか。あずささんの涙はまだ続いている。
「僕は」
思ったより大きな声が出た。
「あずささんが汚いなんて、思ったことないよ」
「……知っているだろう。……私が何をされたのか」
うん、知ってるよ。
一緒に産婦人科に救急車で行ったよ。
避妊ができてるかどうか、長い長い一ヶ月を待ったよ。
「知ってる。知ってて、あずささんが好きだと言ってるよ」
「……」
「困らせちゃうなら、困らせないように努力する」
「……」
「あずささんに、もっと、たくさん笑ってほしい」
「……」
「その時、隣にいたい。笑顔が見たい」
少し考えて、付け加える。
「ずっと笑ってなくてもいい。泣いてもいい。あずささんの全部が見たい」
「……本当に」
あずささんが消え入りそうな声で呟いた。
「本当に、私、で、いいのか……?」
「うん」
「……私を、触ってくれるのか?」
絶句した。ものすごいことを聞かれた気がする。意味を分かって言っているんだろうか……? 顔がカッと熱くなった気がした。返事をしないとと思って大きく頷いた。
「……私」
あずささんが僕を見上げた。涙でびしょびしょに濡れた手が、震えながら僕の服の裾をそうっと掴んだ。
「……私も、遼介の隣にいたい」
耳まで真っ赤にしながら、それでも僕の目をしっかり見て小さく小さく呟かれた。
僕はあずささんを壊れ物に触れるようにそっと抱き寄せ、ゆっくりと口づけをした。
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