ほお

最初のミラクルの記録と、これが成せるのは「私たちは誰もが愛しい子どもたち」なんだとってことやな。たぶん。

今日は七月十二日
娘と父は、今わたしの大好きなバリ島でわたしの愛しい友人たちに手伝ってもらいながら、おいしいの研究に行ってる。

わたしが最初に人生の舵を切った場所。
それからの悲しみを癒した場所。
ずっと存在が支えになった場所。
特別感モリモリなんだけど、バリは基本誰にでもおいでおいでとそこにある。あんまりわたしの情熱をふりかけないで二人にのびのびと満喫して欲しいと思った。

娘と父、二人でどんな冒険をするのかわたしまでうれしい。

で、このすきに、出来事をちょっとnoteに書きとめておく。反応がゆっくりで薄めなのだが、わたしは今すごく幸せで、今からそれを噛みしめていくのだと思う。

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思考もできるし、冷静に判断もできたけれど、知らないうちに生命力が尽きようとしてた。生きたい気持ちが湧いてないことに気がついた。

友人に助けられ、やっと身軽で空っぽの私はこれからを一から始めていくのだと思ってた。
何かのお告げで人生の舵を大きく切って26年。離婚して20年。

五月五日。


力強くないけど「生きていける」気がしてた。

納得もしてるし、後悔もないけど

家族が帰ってくる場所に居るはずだったのになぁという思いが湧いてた。子どもたちがいなくなって、当たり前に習慣になるはずのことが無くなったのは寂しいことだったなと。家族がみんな、条件などなく、一度は兄妹になったり、一生を共にしたいと思いあった人が帰ってくる場所になれたらいいのにと思った。かといって、私は子どもの帰りを首を長くして待つタイプでもなかった。

一体わたしゃ、どういうのがいいんだろう。

そんな願いが叶っているとしたら一体どんな状態なのか、想像もつかない。10年か、世の常識が変わるまでか、時間はかかると思った。けど、願い続けたいなと思うた。

ところがである。

それから一ヶ月経った頃

この投稿の時起きてたことをかく。

まず息子にある出来事が起きた。それを手伝えるように息子の父と妹、私が結集。息子とパートナーが自分たちの望むよう動けるように、同時に自分たちが犠牲になることがないよう自分の人生を歩みながらお互いに協力できるかを確認した。その時、私たちはバラバラに暮らしていた。

その数日後、私に困難がやってきて「もう私は無理だから今まで守ってきたもの全部手放してしまおう」と決心したら、子どもの父親(元夫)が代わって守ってくれた。普通お願いできるレベルでない内容だった。

一件落着しかけたら、娘が仕事を辞めることになった。本人は気づいていないけど続けると死んでしまうやつだった。退職に向けて手続きを進め病院に行ったりする中で自然にマンションを引き払って私と同居することになった。

父親は勤めを辞めて新しく仕事を始めるところだった。住まいと駐車場があるならキッチンカーで移動販売もいいねって話になって、父親も同居することになった。娘は新しく道が決まるまでそれぞれをサポートしてくれることに。どこにも適任の仕事があった。これで息子らが何を決めても万全に迎えられるし、誰も犠牲にならない。

私は皆好きなことをして生きていられるといいなって願ってた。それを叶えながら互いを手伝いあえるといいなと。家族はそんな仲間でいたかった。

注意したのは、わたしが自分のことを忘れてしまうことだった。この数十年を振り返って常に読み取れたのは「わたしはわたしと仲良くしろ」ってことだったから。周りが大好きすぎて自分に気が回せない。

自分の得意で好きなことだけ手伝ったらいろんなものが作れた。自分のご機嫌を気遣ったらみんなが幸せな、みんなの実家が出来上がった。

この間一週間。六月の頭から息つく暇なく突然起きて決まっていった。速度が速くてもうどうしていいかわからなかったから、常に自分がブレないで気持ちよく居られる判断をした。決められない時は「今わからないからちょっと待ちたいけどいい?」って、周りに対しても私は変わっていった。

元夫は2度離婚してるし、息子も今度の結婚で2度目だ。二人ともそれぞれに子どもがいる。関わったパートナーにすでに子どもがいることもあった。これをどう考えればいいかというと

「みんな愛しい子どもじゃん」ってとこと思う。

私も元夫も、私の弟(同居している)も、私の子どもも、関わる愉快な家系図のメンバーだけでなく、うちへ来る友人も、みんな同じに愛しい子どもたちだ。

私たちは誰もが愛しい子どもたちだと思う。





描く行為が好物、つくることが快楽。境界線なくイラストを提供したくなる病。難しいお話をやさしく描くのも得意。生きることすべてを描きデザインする。旅をして出会って描きたいつくりたい。だからサポートは大歓迎です。 ( ・◇・)ノ