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宝石の国最終話読みました

以下はTwitterに投稿したもののほぼコピペです。

兄機が金剛先生みたいになって、宇宙に飛び立った宝石たちがまた高度な知能を持った生命体になってまた1話と同じ光景が広がる輪廻のような繰り返しのオチだから最終回のタイトルが『宝石の国』だと予想してたんだけど、そうではなかった。

蓮の花が咲き宝石が敷き詰められた極楽浄土のような世界で、宝石たちは『形』や『役割』に執着することなく生きている。
あれだけ作中で宝石で作られた己の肉体が欠けることや欠落することを圧倒的な恐怖や絶望として描かれていたのに、フォスの体が砕け小さな破片になることがなんともないものとして描かれている。

『誰かの役に立ちたい、誰かに認められたい』
『欠落したくない、完全な状態でいたい』
というフォスの煩悩は己が宝石の破片になりまた己の破片が彗星となり宇宙を駆けていくのを『だれかのきぶんをあかるくしてるといいな』というどこの誰とも知らない何かへの慈愛に昇華される。

全ての煩悩から解き放たれ、永遠の安楽だけが存在するこの涅槃寂静の世界を描く最終回を『宝石の国』と銘打った意味を知り、この物語が描きたかったこと、作者が伝えたかったことが心に伝わってくる最終回だった。

この作品が仏教的思想に基づいた作品であり、願いとは煩悩であり醜いものであると繰り返し描かれていたことは深く理解しつつも、私は世俗的な人間なのでフォスの救いは凡俗なものであって欲しいとどこか願っていた。

実際月人や宝石達が化身滅智して消滅するのは独善的でエゴイズムに満ちたものだと私は感じたし(作中倫理でどうだったかは別として、そう感じるように描かれていたと思う)
フォスの救いがこれであるなら、フォスの苦しみは一体なんだったんだと思っていた。

しかし煩悩の炎に身も心も焼かれ苦しみ抜いて生きたフォスの旅の果てが、欠落と充足が当価値になり全ての苦しみから解放されフォスが願い続けた誰かの役に立ちたいという願いが慈愛として昇華される様を見て、私の『フォスに救われて欲しい』という煩悩もかき消えたように思う。

この世界は苦界であり、生きることは苦しみである。
なぜ生きるのが苦しいのか?それは何かを手に入れたい、何かを失いたくないという煩悩が生み出すものである。

全ての煩悩を捨て、肉体への執着も己という存在への執着も捨て、ただ心の働きだけがある世界が安楽であると仏教は教えている。

私はこの思想を成程と思いつつも、どこかグロテスクで恐ろしいものだと感じている。(庵野秀明監督のエヴァとかシン仮面ライダーなんかはまさにこの涅槃寂静ってキショくね?人間は苦しみながらもその世界で喜びを見出して生きるべきでしょという感情を主題にしていると思っている)
この気持ちは今も変わっていないが、人の形すらなく高い知能もなくただ慈愛と喜びのある宝石達が生きる美しい『宝石の国』の光景を見て、108の煩悩の数だけ続いたこの物語の行き着く先に深い慈愛と安寧を感じ書を閉じた。

市川晴子先生、長期連載お疲れ様でした。

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