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ちいさきものは、みなうつくし

今、子どもに囲まれる職に就いている。

子どもの感覚は本当にあざやかで、直感的だと思う。概念を知ってしまった大人が、分厚い手袋をして物事を手に取っているとしたら、子どもは素手で触れているに等しい。そんな大人よりも豊かでみずみずしい世界のいちばんおいしい部分を、惜しげもなく差し伸べてくれる。その不安定さが、子どもそのものなのだと思う。

大人はそれを受け取る準備をしておかねばならない。両手のおわんにぱらぱら注がれるどんぐりには、必要性などそぎ落とされた完璧な「for you」が詰まっている。子どもが自らの意思で大人にギフトを贈る時、どんな物もものとしての意味をいちど失う。あげたことをずっと覚えている子もいれば、あげた瞬間に過去のこととなり忘れてしまう子もいる。

かわいい。

子どもにとって、「今」が占める人生の中での割合は大きく、永遠と同じかのような顔で存在している。子どもにとっての今は積み重なり、琥珀の中の昆虫のように、閉じ込められた記憶を残しながら、いつのまにか触れられなくなっていく。

先日、一年間一緒の教室ですごした教え子たちと一旦のお別れをした。一年間撮りためた写真でスライドを作った。流した音楽と、私からのコメントもあってなのか、泣き出してしまう子が多かった。私には罪悪感があった。
まず、分厚い皮で覆われた私の心では、どんなに心が震えても涙を流すことができない。感じたままに泣けることをうらやましく思ったし、ニコニコ見守る自分を情けなく思った。そして、泣けるほどこのクラスを気に入ってくれたのならうれしいが、その「今」がこの先のこの子たちの未来を曇らせていないかと不安にもなった。今に固執すると未来にいい印象を持てないのではないか。もっとこれからに期待を込めた内容にしたっていいのだ。何ならスライドなど見せなくたっていいのだ。何かこの子たちに残したいというエゴでやったことなのだから、わざと泣かせたにも等しいのだ。

涙をためた子どもたちは、何も言うことなくしがみいてくる。教室に会った紙に、「大好き」とその場で書いてわたしてくれる子もいるし、持って帰るはずだったお気に入りの本を「これあげる」とおいていく子もいる。そんな、こっちは、自分のエゴで、大人なら大した苦労もなく作れてしまうものを差し出したというのに。そんなずるい大人に、子どもたちは自分の一番大切なものを差し出してくれる。

それで、私はこの春に新しく、もしくは再び出会う子どもたちに、未来の子どもたちに誓ったのだ。きみたちは自分の大事なものを損得考えず差し出すだろうね。それを決して裏切らない大人でいること、そして大人の代表としてきみたちを失望させないことを、約束する。
かつて子どもだった大人たち。いつのまにか失望して正直でいることをやめたあなたへ、むきだしの自分で傷つきながらでも生きてやれ、私よ。

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