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アーティストであること

台風になりきれなかった風を浴び半分だけのすいかを食べる

短歌を詠む人になるにはどうしたらいいんだろうと思った。また衝動に任せてばかなことを考えている。たぶん売れるかどうかの世界なんだと思う。こんな私のぼやきに、いいね、やってみればいいじゃんと当然の顔して言ってくる友達がいる。

ある人は、私のことを芸術家ではないという。思わず聞き返すと、当然の顔してそうだと言ってくる。思わずこみ上げてくるような笑いと共に、逆に自分が芸術家だと思っていたのかと聞き返される。

その人はたぶん、私はプロにはなれないという意味で、芸術家ではないと言ったのだ。プロになれないことくらい、わかっている。それでも、私は芸術家ではありたいと思うのだ。音楽をし、書道をし、言葉を扱う人々にあこがれを抱く身として。その人は、私がプロになれると勘違いしているのだと思ったから、かわいそうな者を見るような目で、「そうだ」と言ったのだ。電話で言われた言葉で、どんな目をしていたかは本当はわからない。

私が嫌われていた理由を、努力していなかったからだと言い放つ人がいる。彼は嫌われていた頃の私を知らない。そんな一言で片付けられてたまるか、という悔しさと同時に、努力していなかったと、そんなことを言われるような私が、彼の目には映っているのだという、そのことが悔しくてたまらなかった。今の私は、努力してこなかった過去が当然のこととして投影されてしまうような、そんな自分なのか。何を言っても、努力はそれを判断する人によって変わるから、自分が努力しているつもりでも、それは他の人からすれば努力に値しないこともあるのだと、彼は言う。正しいのは、彼なのだろう。彼からすれば、私は当然過去も努力していなかったと思える、今の私なのだろう。そのとき彼の前でどれだけあがいても、他人より努力の水準が低い、哀れな人に見えるだけなのだと思った。

音楽の才能がある人をうらやむ私を、才能じゃない、努力だと言う人がいる。素晴らしい人を才能だと片付けてしまうのは、その人の努力を認めようとししない、失礼なことかもしれない。才能のある人の、努力だと言い換えてみた。それでも彼女は、努力だと断言した。音感がない私は、努力が足りないのだろうか。

努力することが許される人がいる。私がどれだけ切実に芸術を学ぼうと思っても、芸術を教えてくれる大学に入ることは出来ない。ある程度の才能、将来の見込みがある者が、努力を許されるのだと思う。少なくとも、私は音楽で大学に行くことはできないことを知っている。努力をするよりも先に、やらなければならないことが多すぎる。努力は許されていないから、生きるためには仕方がないこと。

両立は綺麗じゃない。何かをするには、人の生きる時間は短すぎる。そう思わせてくれる人がいる。学校で教わる両立は、学校という場で生きる時間だけ達成しうる両立でしかない。勉強も、部活も、努力によって両立ができる範囲にあった。両立は良いことだと染みこませられた私のままで世界を見たとき、これだけ生きても時間が足りないとぼやく彼は、両立よりも美しく思えた。

プロになりたいわけじゃない。プロになれない私はせめて、芸術家でありたいと思う。そのくらい許されてもいいはずで、許されるべきで、芸術をする以上、誰もが芸術家であるべきとすら思う。


超大型といわれた台風は、少し強い風と、普通の雨。台風になりきれなかった風はカーテンを揺らして灰色の部屋に入る。半分のすいかは半分嘘で、八分の一に切られたすいかを独り占めしようとした。透明なガラスの器に入るだけ、八分の一の半分のすいかを窓際で食べた。


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