エントリーシートから

「心に残る新しい価値の創造」私の夢だ。

マックでエントリーシートを書いている女の人がいたので、覗き見したらそう書いてあった。

けれど(彼女含め)この地上の誰ひとり、それが彼女の本当の夢だなんて思わないだろう。エントリーシートの目的は、文字通り“エントリー”する“ため”のものであって、自身の信念を表現する形式ではないからだ。
ここで彼女が「夢」と書いているものは、エントリーをするために建前上そう言わざるをえなかった「欲望」の別名だと思う。

一人の女性がやわらかな光のなかで僕に話しかける。厳密に何かを伝達しているわけではなく、彼女が僕のことを求め、僕も彼女のことを心から理解しているように感じられる。交わされるべき言葉は必要なく、「言葉」や「意味」という概念が無に帰する瞬間。

つい最近、僕が見た夢です。

平安の頃、自身の想い人が夢に出てくることは、相思相愛と解されていたらしい。この考えに従えば、僕は近いうちに夢の女性と出逢うかもしれない。

なんて甘いことを考えると、ジグムント・フロイトというあの険しい髭面によって、僕の淡い夢は性と欲望の重苦しい議論に回収されてしまいそうだ。ラカンだったらもっと酷くて、その女性とSEXすればさぞ気持ちいい(しかし永遠に手にすることはできない)みたいなことを言いそうだ。

このように夢には2つの意味が並立している。つまり現実にズレて重なる次元としての夢(見る夢)と、欲望の現れとしての夢(抱く夢)。

後者の立場をとれば「夢をかなえる」という言葉は、「欲望を成就する」という意味に押し込まれてしまう。もちろんこの夢概念だって悪くない。生産性や有用性が尊ばれる大人の世界において、欲望の表明は行動を触発し、現実化への第一歩だから。

大人になるということが、「行動の世界」つまり労働と生産性優位の世界に入ることだとすれば、マックの彼女の「夢」は建前上の「欲望」として受け止められるし、それでいい。

そうだとすれば僕が見たあの夢の女性はいったい、どんな位置づけになるんだろう。

まさかあれも欲望の現れ?

僕は「ただの夢」だと考えたい。一切の意味を欠きつつ、「私」に突き刺さるように現前する一輪の花。目的も解釈の余地もない圧倒的体験としての夢。ゆえに夢の女性との体験は、今でも僕のなかに存在し息づいている。

夢は光が眼球に差し込むように、ただ向こう側からやってくる。夢がどれほど現実的、虚構的であっても夢であるという点において自明すぎるがゆえ、疑う余地などない。(デカルトがそうしたように現実の方がよほど疑いうる)だから夢と呼ばれ、その輪郭と力をもつ。

僕は夢を「たんに見るもの」と考えている。けれど大人たちは欲望としての、建前としての、みんなに見せるための「夢」を持てと平気で口にする。それは大人にとっては必要かもね。でもさ、必要だから持つモノなんてつまんないと思わない?

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