言葉
このところ、やたら文章を書いている。
仕事でも文章を書くし、修論でも書くし、雑誌を作ろうと思い立ってしまって、それでも書く。雑誌の執筆とは違って、雑誌のコンセプトだとか連絡とか、あまり本質的でないところで書く。
もともと文章を書くのが好きだから、たぶん普通の人よりはしんどくないけれど、わりとしんどい。こんなふうにただ適当に、気持ちの赴くがままキーボードを叩いているのが一番好きだ。
小説なんかも書きたいと思って、書いているけれど、こちらはこちらでしんどさがある。小説のしんどさはストーリーテリングのしんどさだ。しんどいけれど、小説の言葉は軽くてよい。
逆に哲学の言葉とかは重くて、重くて、鎧でも着込んでいる気持ちになる。
でも、それより重いのはコミュニケーションのための言葉かもしれないと、このところ思う。誰かに何かを伝えようとして書くのはしんどい。
このしんどさは、言葉と向き合うしんどさとは別のところにある。哲学は言葉と向き合うしんどさで済むけど、誰かへの言葉はもっと別の、他者とでも言いたい人たちを相手にするからもっとしんどい。
特にしんどいのはやっぱり知らない人に書く時だ。
知らない人と言っても、ほんとうに何も知らない無関係な人ではない。ある程度は知っているが、反応の予想がつかない人に向かって書くのがつらい。言葉の受け取り方は千差万別だし、相手から返ってきた言葉をどうとればいいのかも分からなかったりする。
戸惑って、もっとたくさん言葉を増やしてみてもあまり上手く行かない。結局、言葉で理解し合おうなんてこと自体、馬鹿げているのかもしれない。なんて思うこともあるけど、そこまで言い切れない何かが言葉にはある。
伝わる感じと伝わらない感じは確実にあるし、ほんとうに伝わったかどうかはわからなくても、なんとなくはわかる。透明のボールをバットで打って、見えなかったとしてもなんとなくヒットだなとか、ボールだなとか分かる感じでわかる。
この感触がある以上、独我論的に、誰かをロボットとして想定するのは無理がでてくる。たとえ原理上、その可能性があるとしても、その可能性に賭けられないなにかが介入してくるのだ。
それはもはや言葉では構造上、説明がつかないような気がする。
それでも言葉を使わざるをえないし、こんなふうに時間を無駄遣いしたくなるから不思議なものだ。
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